駝鳥化する保守

進化生物学の有名な仮説に「赤の女王仮説」と言うものがあります。内容は大雑把に言えば、生き残るためには変化しなければならないと言うものです。
私はこの仮説について考えるたび、アイザック・アシモフが創作したスペーサーと呼ばれる長命人種の運命について考えます。200歳、400歳、あるいはもっと寿命が長いスペーサーの社会は、高度な文明を持ちながら、短命人種(つまり私たち)との抗争に破れ、滅びてしまいます。
死がないところには結局、発展もなければ未来もないのです。
保守とは何か、いろいろな定義があろうかと思います。
私は好意的にそれを見るならば、伝統を重視する態度だと言えるかと考えています。
ラディカルに陥りがちな革新にブレーキをかける存在だとも言えます。
そのこと自体の妥当性は、内容によって左右されます。つまり、私たちの車が崖に向かって走っているならば、ブレーキをかけるべきですし、強盗が追いかけてくるならば急発進すべきです。
フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは次のように言いました。
「私は民主主義の諸原則については保守であるし、抑圧に対しては革新だ」
べつだん、何の変哲も無い現実主義です。
しかし私が思うに、保守主義や、あるいは「ラディカル」な革新は、こうした現実主義を越えて、表れる思考の拘束、癖のようなものだろうと思います。
痴漢冤罪を産む構造がもとは善意から生じているのは疑うべくもありませんが、冤罪をあまた産みながらそれを無視できるのは「ラディカル」と評されるべき革新性でしょう。
逆に、例えば戸籍や相続における私生児差別を「仕方が無い」と思えるのは、内容から敷衍せずに、保守そのものへの拘束性が強い態度でしょう。
両者とも基本的人権を擁護するこの社会の現実主義からはかけ離れた態度です。敢えて違いを言うならばリベラルには少なくとも善意があるのに対して、保守には無関心があるのみ、という点でしょうか。
注意して欲しいのは、私がここで挙げているのは法を通した直接的な抑圧である点です。
犯罪は犯罪者のせいですが(共同体の責任は間接的です)、法による抑圧は共同体の責任です。つまり私たち自身の責任です。
保守主義の持つ、保守主義そのものへの拘束性、今日と同じ明日が続くことをひたすら願う心情が、破滅的にあらわれたのは少子化問題でしょう。
女性の社会的地位向上に伴って出生率が低下するのは、明らかな事実です。
憲法に男女同権が定められている以上、後戻りは出来ないのですから、家族のかたちを変え、女性の多様な生き方に対応しなければ、出生率の低下に対応できないことは明らかでした。
望むと望まざるとにかかわらず、女性を拘束する「家族の絆」は打ち破っていかなければならないのです。
保守、自民党政権はとうとう最後まで、この現実に対応することが出来ませんでした。
少子化によって日本が滅びるとすればそれは自民党のせいであり、保守主義者のせいです。
既に、今からではおそらく日本の衰退に少子化対策は追いつかないでしょう。
美しい衰退などというものはありません。
そこにいるのは、大便を垂れ流しながら町を徘徊するアルツハイマーの独居老人たちです。
この来るべき地獄を緩和する手段としてはもはや移民受け入れしか残されていません。
しかしそれさえも、保守主義者は「美しい日本」を守るために拒絶するでしょうし、それを覆すことはかなり難しいでしょう。私はこの国の未来について、絶望的な見通しを持っています。
歌舞伎めいた大袈裟な表現だと自分でも苦笑せざるを得ないのですが、思うままを正直に言えば、この国は危急存亡の時に立っています。神武以来の国難です。
危機を乗り越える方策はあります。しかしそれを実行することが出来ないのです。
私たちはどうすべきでしょうか。
穴を掘って頭を埋めましょうか。あたかも危難がないかのように夢を見ましょうか。美しい日本、とてつもない日本、誇りをくすぐる物語をシェヘラザードに千日も枕元で語ってもらいましょうか。
夢見る駝鳥のように。
この物語はいったいどのような教訓を後世に残すのでしょう。
日本を滅ぼすのは日本人であった、とせいぜいが言われないよう、希望するしかありません。