普遍と評価

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080402/p1
あることについて語ることが、そのまま別のことについて語ることとはなり得ない。それが歴史的な事象についてのことであれば、そんなものは歴史学ではない。
ふたつの異なった事件において、構造的に共通する因子があるとする。正確に言えば因子があると考えられるとする。それは結果的に浮かび上がる共通点であって、批判と考察を欠いて、あらかじめ何かを語ることが別の何かを語ることにはなり得ない。
異なった事件においては、共通する部分もあれば異なった部分もある。共通する部分を強調する意見は、両者における差異を過小評価するか少なくとも一端停止する見方であり、それは事実に対するごく個別の限定的な評価であり、それがそのまま普遍ではない。
ひとつの見解であるに過ぎない。同じく差異を強調して共通因子を軽視する姿勢もまた、ひとつの見解であるに過ぎない。
そのうち、個別の事件の評価に対して、どちらが妥当であるのかは経緯の評価、比較における評価、関連する事例における評価態度の一貫性などなどを複合的に勘案しなければならない。それが全体性を考慮するということである。
アイヌチベットについて具体例として考えてみれば、共通する点もあるし異なっている点もある。
共通する点としては、より勢力の強い民族による周辺弱小民族の同化政策に晒されたということ。
その過程で差別や暴力に晒されたということ。
共同体として解体され、もしくは解体されつつある途上にあり、自治も不可能であること。
異なっている点としては、共同体の解体がすでに完了したか現在進行中であるかという点。
より抽象性の強い国民国家の中において各種の自由が保障されているかどうかという点。
現に継続的な暴力に晒されているかどうかと言う点。
共通点のみ、もしくは共通点を強調して語ることは、差異、もしくは個別の事例の特殊性について語ることにはならない。
id:hokusyu氏の

個々の事件には個々の事件それぞれにしか適用できない事実関係があるから、そこを一般化して述べてはならない。問題双方に共通する構造について述べることは重要である。だが、あらゆる事件をある類型的な世界観の中に放り込んではならない。

この見解が提示されているならば、この問題においてそう見解が食い違うことはないはずであるように思えるのだが、どうして結果としてこう食い違っているのだろう。
類型的な世界観に放り込むことを少なくとも警戒されているのならば、アイヌについて語ることがチベットパレスチナについて語ることとなるように言うのは、私としては矛盾した態度だと評するよりない。
もちろん、それらには構造的に共通している点もある。それらのみではなく、広く過去を探れば、軍事力を基盤とした権力構造によって、征服や同化政策が進められてきた歴史が一般にある。それをどの程度さかのぼって問題視するのかについては、また別個の現実に即した議論が必要になるだろう。ギリシア人がアレクサンドロスを、モンゴル人がチンギス・ハンを無批判に崇敬するような行為までを批判の対象に含めるかどうかという話である。
朝廷の征東政策を批判するのであれば、被征服民であり完了した同化政策の当事者である東北人などをたとえば南京虐殺において批判の対象とする日本人に含められるか、フランスの植民地政策において批判の対象となるフランス人にブルゴーニュ人やオック語地域人を含められるかと言う問題にもなり得る。
少なくともヒトではあったネアンデルタール人の現生人類による放逐も構造としては、問題視されるだろう。同化政策一般に伴う問題とはそこまでの射程を含めているのだ。
実際にはどこかしらの時点で、現代に軸足を置いてこの問題を捉えるべきだろうと私は思っているが(構造に根ざして原状回復がほとんど不可能であるからとの理由で投げ出しはしないという意味でもある)、非常に果てしない問題であるということは言える。
さて、そうした問題と、直近における暴力の問題を並列することが非常に問題があることは私としては明らかであると思う。
これがただちに、同化政策の問題を無問題とみなす態度ではないことは何度も明言してきたとおりである。そのように明らかにして言わなければならない圧力があるということ自体、この問題を並列視することに伴う不利益を示しているではないか。