俎上の被害者

武士が辻斬りに遭ったとして、前面に傷を受ければ名誉、背面に傷を受ければ臆病風を吹かせたとして処分されたというが、被害者にとっては理不尽というしかない。
武士の時代ならではの前近代性だが、今でも道徳的な話としては似たような非難を浴びることもあり、被害者が非難されることもある。


被害者が非難される場合としては、加害-被害の関係を誘発した直接的な原因が被害者側にあるのではないかと考えられる場合がある。公共の場所での明らかなマナー違反(電車内でねそべる、荷物で座席をふさぐなど)を注意されて従わず、口論となり、注意者が被注意者に暴行を加えたような場合、あるいは、非がないにも関わらず罵詈雑言を浴びせかけられてかっとなって暴行に走ったような場合、などがそうだ。
加害と被害の関係は、ある行動を抜き出しての作用を表現したものであって、そもそもの原因をさぐれば加害者と被害者が逆転することもある。もちろんそのような場合は情状の余地があるし、そうした情状を考慮することなしに、加害と被害の関係を全体として捉えることはできない。
単に無関係の人間を通り魔的に殺傷した事件と、日頃から強い抑圧に晒されていながら非人道的な扱いに耐えかねて爆発して殺傷した事件とでは評価が異なってくるのは当然だ。
しかしそのような場合にも注意しなければならないのは、被害者がすでに死亡している場合、反論を加えることが出来ないので、加害者側の証言のみを鵜呑みには出来ないこと、状況証拠を充分に吟味する必要があること、加害者側の感じた「被害」が第三者の比較的客観的な評価においてどの程度、逼迫していると捉えられるのかという評価の客観性を考慮することである。


しかしそうした加害-被害の直接的な関係とは別個の次元で被害者側が非難されることもある。逃げようとした武士が臆病者と非難される例も、過去の事例ではあるがその種のものであるし、事件の発生の直接的な原因から離れて、被害者側が道徳上非難されることもある。
深夜まで繁華街で遊んでいた未成年者が犯罪に巻き込まれた時に、その放埓性を指摘して自業自得とするような場合、または戦乱のイラクに入国して武装勢力に囚われた人質に対する非難などはその例だろう。
そうした場合に、被害者を非難すべきでないというのはもちろんひとつの道徳的な立場としてはあり得るのだが、加害-被害の関係において被害者が非難されるべきではないのは単に事実として加害行為の誘因を被害者側がもたらしたのではない以上、言えることだが、道徳的な非難はそれとはまた別の非難と捉えることもできる。
未成年者が深夜に家にいるよりは繁華街にいる方が危険なのは、ごく常識的な見方であるし、戦乱のイラクに入国することが、そうしないよりは危険なのはこれもまた常識的な見方である。
つまり何らかの事件は、事件そのものの加害-被害の関係を離れて、別個の次元において論争的に処理されてしまうことがしばしばあり、それはそれぞれの感想の表明をもたらす表現の自由と密接に関係していると考える。
もちろんこうしたことがたやすくセカンドレイプやそれに類した圧力を被害者に与えることは容易に想像ができ、重要なのは被害者が自ら望んでそうした論争的な立場に立つわけではないということだ。
彼らは、多くは単に巻き込まれて被害者となったのであり、論争的な立場に立たされる公共の利益を積極的に支えるべき義務はない。
だが同時に、現代においてはいかなる事件であれ、論争的に処理されないということもあり得ないというのもまた、自由を支える側面的な必然なのだ。非難するのであれ、擁護するのであれ。
で、あれば、どうすればいいのかと言うことをまずは考えたほうがいいと思う。
こうしたことは起きてはならないとするのではなく、必ずや起きるものだという前提で対策を講じる必要があると思う。
被害者はどれほどの理不尽な被害であれ、加害-被害の関係においても、それを離れても批判的に処理されることがあるし、それによって心理的な圧迫を感じることがある。しかしそれもまた自由に伴う側面のひとつであるならば、どのような対処をとるべきなのかを考えるべきなのだ。
まず考えられるのは、被害者個人の氏名を報道しないことが挙げられる。
法律上の問題として加害-被害の関係をとりあげるならば、個人名は枝葉に過ぎない。これは単に、報道しないというだけでなく、報道機関にそもそも情報を与えないということだ。
これですべての事件において、被害者が論争的な立場に立たされることが回避できるというわけではないが、暴行事件などでは被害者が自ら言わない限り情報が統制できる余地が増えるのは確かである。
それ以上のことは、実際には難しい。対抗して言論で処してゆくしかないが、出来ることはやってみればいいのだ。