聖火リレーをめぐる現象

愛国主義の強さを思う。
中国共産党の政治体制が、非常に問題が多いのは確かだが、無秩序よりはましなる考えも提示できる。よく、ロシアについても言われることだが、専制的な政治なしには国がまとまらないなる言い分が本当にそうなのかと考えてみる必要はある。
中国より更に多様で雑多なインドで、まがりなりも民主主義が機能しているという事実、中国文明のバックボーンを持ちながら台湾やシンガポールでそれぞれ特殊な問題を抱えつつも、議会政治が定着しているという事実、1989年の天安門事件で見られた、中国国民に民主政治への要求がないわけではないという事実をかんがみて、中国に民主化される余地がないとは言えないと思う。
中国国内においてチベット問題におけるナショナリズムに根ざした反発は、情報統制の要因を無視は出来ないので、それだけでより普遍的な人権意識の欠如とは断定は出来ないが、その要因の少ない海外の中国人、あるいは中国系の人たちの人権問題より愛国主義を優先させる姿勢は、集団としての中国人の他者に対する人権尊重意識の希薄さを読み取らざるを得ない。
もちろんそうした傾向はしばしば中国人に限った話ではないが、多くはカウンターの声も大きくなる。
批判されるべき実態がある時に、それに反発するだけではなく、改善することによって批判を回避しようとする動きがあることが、普遍性の実態というべきで、そうした要素の希薄さが、中国国内の人権問題や特に他者に対する外交政策における中国人国家の危険性を構成している。
中国人の非常に強硬な反発を見て、「なるほど」と他者がなることはまずありえず、中国人とその国家に対する警戒を強めるだけだろう。
中国政府の言う、平和的台頭などはもとより虚構性が強いものだが、虚構を実体化してゆく必要はあった。そのための手段は他国に対して強圧的な姿勢をとることではなく、異論があることを前提とした上で、対話を重ねることだ。
この問題で中国がそのようなことを考慮しない強硬な姿勢をつらぬくのであれば、他国に残された選択は中国を実質において危険な国、危険な国民と認識するだけのことだ。
チベットの問題は単に内政問題にとどまらず、今後、中国に対する警戒を実行に移す試みがさまざまなレベルで企てられるだろうが、対話可能性がほとんど期待できないゆえの防衛的な態度だというしかない。
中国とどのように付き合うかと言うのは、特に21世紀に入ってから、日本の主要なテーマだった。
これからもやはり主要なテーマではあるが、意味は変わってくる可能性はある。