井上ひさし氏逝去

ざっと話題になっているニュースをさらうために、私はよく2NNを見るのだが、井上ひさしさんがお亡くなりになったことを、そこで知った。
やはりと言うか、案の定と言うか、スレッドを読めば氏がドメスティックバイオレンスの加害者であったことがまず語られていて、ついに自らの暴力性について語ることもなく逝ってしまったというのが残念だ。
井上ひさしさんの稀有の文才は疑うべくもない。戯曲にせよエッセイにせよ、相容れない政治思想を互いに持っているにも関わらず、氏の作品は強烈な引力に満ちていた。筆が遅いと言われながらも、後から蓄積を見れば相応の量を残しているわけで、あれほどの水準のものを、持続して作品として残すことは、井上さんにしてもなお相当な苦労があったはずだ。
私たちはどうしても文化の型に引きずられてしまいがちで、その中で互いに演技者になってしまう。ぎりぎりの限界まで自分を追い込む創作者と、それを支える配偶者という物語が世間の中にあるならば、互いに共依存的にその型に自らを落とし込んでしまうのだろう。
創作という行為をもってしてもドメスティックバイオレンスを正当化しない文化の中にもし井上さんがいたならば、おそらくそのような事態は生じなかったのではないかと思う。
創作の行き詰まりを打開するために、井上さんの先妻に向かって、編集者が「申しわけないけれども、奥さん、お願いできませんか?」と頼んで、先妻さんがわざわざ殴られに行くということがあったようだ。
そこには単純に加害被害の関係だけではわりきれない、創作者という存在に対する共同幻想のようなものが、その三者の間にあったわけで、「創作者というその家族」という演劇的な空間に、彼らがからめとられてしまったということだ。
日本には奇人を好む文化もあり、文士なんてのは偏屈であってなんぼという風土もあり、村上春樹さんのような至極まっとうな常識人は文壇的にはかえって生き辛いという倒錯もあったようだ。
私は井上ひさしさんのドメスティクバイオレンスを情状酌量してあげるつもりはまったくないが、以上のような理由からそれが単に氏個人のパーソナリティのみに由来しているとは考えない。
だからこそ、日本の文化に伴うある種の演劇空間の当事者として、氏が自らのドメスティックバイオレンスについて語ることは、個人の贖罪以上の意味があり、井上さんが日本文化のありように関心を抱いていたのであれば、農政や憲法よりも前に語るべきことがあったはずなのだが、それが結局出来なかったというのが氏の人間的な弱さなのだと思う。