脱デリバティヴな世界

バブル崩壊の頃だったろうか、古本屋で日本経済解説の漫画を購読したことがある。
この手の本としては石ノ森章太郎の「日本経済入門」が有名だが、これはメジャーな作家の筆によるものではなく、題名も覚えていない。
内容は、新たに新設された財務部に配属された熱血新入社員が、社内の偏見と戦いながら、財務で大きな利益を上げて、会社に貢献するというサクセスストーリー。
この筋書きがいかにもバブル時代っぽいと思うのだが、日本人的にしっくりとくるストーリーとしては、職人肌の頑固な主人公が軽薄な財務にはうかれずにこつこつと「むかしながらの正攻法の営業」を積み重ねて、会社の危機を救う、というようなものだろう。
正と悪の入れ替わり、価値観の逆転が起きたのが、バブルの時代であって、その崩壊を経て、日本人の価値観はいっそう保守的になったように思う。
かつて大前研一が言っていたことだが、バブル崩壊を経て、京都の老舗が潰れていないのは恥ずべきことらしい。氏に言わせると、それは単に保守的な挑戦心の欠如を意味し、何もしなかったから無傷だったのは誇るべきではないということだ。
バブル崩壊の後処理をようやく終えても、日本の金融機関、日本企業は極端な艦隊保全主義に回帰した。
その保守性を笑われようとも、頑として港から動かず、他国の艦隊が大洋を所狭しと走り回るのを傍観していた。
そして今、大洋は津波に襲われて、ひとり港に残っていた日本のみが比較的軽症である。
大前研一はさぞや悔しがっていることだろう。
禍福は糾える縄の如しで、何が幸いするか、分からないものだ。
今回の金融危機のキーワードはデリバティヴであり、つまりは負債である。
財政的な負債というよりは、金融的な負債であって、デリバティヴに特化していた国ほどその影響を被っている。
実際に持てる資本以上に投資をすることが、投資が失敗した時に危険を増大させるのは素人でも分かることだが、リスクを抱えて、リスクをこなしてゆくのがプロであって、もしリスクの増大がコントロール可能な範囲に留まる限り、利益を最大化させたのは彼らだっただろう。
実際には永遠の春は存在しなかっただけのことだ。
もちろん、この危機を乗り越えた後には、よりデリバティヴに対してストイックな金融秩序が形成されなければならないが、果たして可能だろうか。
既に世界の工場としての役割を終えつつあるアングロサクソン国家にとって、それは二流の地位への退場を勧告されるに等しい。
多国間のグローバリズム経済の形成の動きは鈍り、二国間貿易が再び主流になるだろうし、いずれの国も内需主導型経済にならざるを得ない。
保守的な世界は、新興工業国の経済発展も望みがたい世界になり、貧困は克服されないかも知れない。