金融安定化法案可決

上院で修正されて、下院で再審議の上、可決されたようで、まずは良かったというところ。
まだまだ予断は許さないまでも、そして既に被害は甚大だとしても、大恐慌は避けられるのではないかと思う。
ところで、
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20081002/p1
mojimojiさんのこの記事を読んで、べつだん異論はないのだが、じゃっかんのため息。

こういう時こそ、お得意の自己責任でしょとシニカルに言うのは理屈としては正しいけれど、経済も国家も何もかも崩壊して正しさだけが残っても、それどうなんよ?という。

私はそう書いたが、mojimojiさんが自分は金融安定化法案そのものには賛成なのだというのであれば、べつに私は氏がそれに反対していると書いてはいないと思うのだが。
自分のテキストの厳格な読解を求めるのであれば他人のテキストにもそれをなされればよかろうに。
システムの問題であれば、それはどのような効果をもたらすのか、メリットとデメリットの比較、選択の問題であって、もとより謝る、謝らないの問題ではない。
システムとして問題があった、おそらく今後は修正されるだろうしされるべきだろうし、より管理の度合いが強まるだろう。その点、おそらく私と氏の間で見解においても妥当さの評価においてもそれほどの違いはないだろうと見ている。
合法であり、支配的であったシステムに対して、あるいはその中で経済行為を営んで利益を得ていた人たちに対して、謝る/謝らないと言った道義的なイデオロギーを振り回してもしょうがないと私は思っている点がおそらく違うところだろう。
むろん、そのシステムは自由主義イデオロギーに立脚しており、人間社会のあらゆる諸制度がそうであるように、イデオロギーから完全に分離していたわけではなく、そうであればこそ、その度合いの薄かった日本社会をマネタリストたちは叱責もし、嘲笑もしていたのである。
今回の破綻から敷衍すれば、デリバティヴな人工的なバブルに立脚した金融工学の危うさは明らかで、この危険な側面を過小評価していた彼らはシステム的に読み間違いをしていたというしかないのだが、この盲目さをもたらしたのはイデオロギーの絶対性であり、だからこそ今回の破綻は単にシステムの改変をもたらすのみではなく、80年代から続く新保守主義思想の相対化をもたらす(ソ連の崩壊がマルクス主義思想の相対化をもたらしたように)と思う。
より限定的なシステムの問題として処理すべきことが、思想的な拘束を強めたために、「適当なところで手を打つ」ことが出来なかった結果の危機であり、それを謝る/謝らないの思想的・道義的な処理をしてしまうことは結局は思想の拘束を強めるだけのことだ。
精査もすればいいし、批判もすればいい。思想と切り離して、むしろそれをするための「いい加減さ」である。私としてはそのような意味で書いているのは明白だと思うが、明白でないのだとしても、少なくとも精査なしで手を打てと書いていないのは明白である。
だから私としては、

 しかし、「謝るべきである」ことを確認しておくことには意味があるよ。妥協するときに、「一体何を妥協したのか」がハッキリするから。金輪際、二度と信用してはならない人物が誰であるのか、それを否応なしにハッキリするから。逆に、iteau氏のように「「いい加減」「適当」「まーこのへんで手を打ちましょう」というなあなあさ」を持ち出す人は、一体何を妥協したのか、事前も事後もさっぱりわからない、曖昧なまま、ということになる。再発防止に失敗するのは、こういういい加減な態度によるのだろうな、と思います。

氏が私への「反論」として書いたこの部分はただ食い違っているだけだと思うし、言っていること自体は基本的には同意する。同意しないのは、システム的に不適当であるという部分を「謝るべきである」とイデオロギー的に処理している点だけだ。
それだけだが、上記したように、この点は大きな齟齬であり、私はむしろそうした過度にイデオロギー的な態度が(それがどのようなイデオロギーであれ)、この種の破綻を招くと考えているので、無視できない違いである。
今回、具体的な方策についてはおそらく私と氏の間で大きな違いはないだろうが、それは私たちが共に、過剰なリバタリアニズムに立っていないからであり、その点ではたまたま同じ立場だと言えるのだが、やはりイデオロギー的に処理しているという点では、私は氏はむしろ私よりも過剰なリバタリアンに近い人なのだろうと思う。
私が批判しているのは、物事のそのような処理の仕方なので、氏の「この問題における対策」については同意だが「この問題に対する認識」については不同意である。