JAPAN as a lesson

The New York TimesBBC News あるいは Al Jazeera などの海外のメディアサイトを継続的にチェックしている人ならばとうにお分かりのことだろうが、ここ数年来、ニュースにおける日本のプレゼンスの低下は目を覆わんばかりであった。
それはゼロ年代の初期と比較しても甚だしいものがあった。
例えばBBCのアジア関係のトップストーリー10のうち、9が中国関係が占めて、日本はたまにエントリーするかな、くらいにまでなっていた。
2003年頃はその比率がほぼ逆であったことを思えば、彼らが日本を既に終わった国として見なしていたのは明らかである。
ここ最近、しかしながらニュースサイトやアメリカの有力政治系ブログなどで、再び日本がフィーチャーされることが増えている。
一例として挙げておくならば、たとえばこの記事とか。
例として挙げた記事などは典型的なのだが、この金融危機に際して、直近の事例として日本の失われた10年について書かれることが多い。
多くは財政出動の無意味さとして、挙げられている。
失われた10年と言えば、南米にとっての80年代を指す言葉として知られていたが、最近はこの語はもっぱら90年代半ばからの日本の決まり文句となっている。
しかしどうにもそうしたエコノミストがどれだけ実態を把握しているのか、疑問が残る。
南米はむしろ失われた10年以後、急速な経済発展を見せたわけだが、短期的なデータに依拠してポテンシャルやファンダメンタルズを軽視する傾向が多いようにも感じる。
逆に言えば、比較的順調に行っているように見える時は、データを軽視しすぎてポテンシャルばかりが重視される(その多くは心理的なものだ)ことも多い。
どう見ても危うげな中国経済に対する、ある種の過大評価はその一例だろう。
日本の失われた10年については、まあいろいろな評価があるわけだが、問題は多いにしてもファンダメンタルズを詳細に検討すれば日本は決して必ずしも悪くはない。
その評価が金融危機以後の円高という形になっているわけである(もちろんこれはこれでそれなりの問題を生じさせるが)。
つまりフェイクマネーによって踊らされた国の危機は、日本などと比較にならないほど深いと言わざるを得ない。
どうも、この危機と、日本の失われた10年を比較すること自体、的外れな感も受けなくもない。
ある種のそうしたインテリジェンスによる制御自体が金融危機においては問題となっているとも言えるからだ。
アイスランドなどは国の規模が小規模だからその破綻が目に見える形で生じているが、本来は英国や程度としてはアメリカも同様の縮小をしなければならないのである。
金融の虚構性を剥ぎ取った後に、いったい何が残るのかという話である。