村上春樹のこと、エルサレム賞のこと

村上春樹エルサレム賞を受賞したこと(そして当人が受諾したこと)がどうこう言われているようだ。
(仮に)批判派と(仮に)擁護派、双方の意見を読んで、それぞれにもっともだなと思った私は、これという主張もない。
ただそれがまったく語るべきことがないことを意味しない。
芸術と政治の関係性については、別にこれに限らずこれまでも様々な事例があったし、語られてきたのだが、今回の件については私はなによりもまず文学(という表現)の特殊性を感じる。
あらゆる芸術には表現するための手段と、表現が示す内容がある。
シニフィアンシニフィエと置き換えても良い。
作者や作品によって、あるいはいかなる表現方法を採るかというジャンルによって、シニフィアン寄りの傾向、シニフィエ寄りの傾向があるのだが、例えば、ピカソは私が思うに極端にシニフィアン寄りの作家である。
表現方法自体が持つ人間の認知のありように興味の根本がある人だと言ってもいい。
文学が特殊だというのは、まずツールとしての言語に、他の芸術のようには技術的ハードルがない、もしくはごく小さいことである。
ジャンル自体にシニフィアン性が比較的希薄だということだ。
このことはつまり、作品が全人格的に評価され易い傾向をもたらす。
スピルバーグの娯楽作品に、「作者の言いたいこと」を求める人はほとんどいない。あれはほぼ純粋に映像作家としてのスキルで作られているシニフィアンの塊だからであって、文学はジャンル的にほぼそれと対極にある。
小説に比較して詩はツールとしての言語により自覚的にならざるを得ない分だけ、シニフィアン寄りになることがある。谷川俊太郎が訳するマザーグースなどはまさしくそうであって、私が詩歌を評価するとすればそれはどれだけシニフィアンとして優れているか、それだけが最重要の基準になる。
従って国語の教科書に載っているような詩は、シニフィエとして書くならば小説でおやりなさいということになる。
村上春樹の場合は、結果的にどちらかと言えばシニフィアン寄りの小説家なのだが、それは彼のシニフィエが、ジャーナリズムのような明確性を持たないからである。
アンダーグラウンド」以後、彼にはジャーナリスティックな活動があるのだが、それは徹底して明確性を拒否するという、まさしく言語をツールとしか扱わない、それゆえにシニフィアンが無価値・無意味になり、シニフィエだけが残るジャーナリズムとは一線を画しているから、それはジャーナリズムではないのである。
こうして考えると、文学には、シニフィエ寄りの構造がありながら、シニフィアンシニフィエが一義的に結び付けられるシーニュ存在としてのありようを拒否する、つまり語りながらなお語られていないなにかしらを前提とするという矛盾した性格があり、少なくとも現代文学とはそうしたものだと思う。
ジャーナリズムがあってなお文学が必要とされる余地はそこにあるのであり、彼が文学者であれば、ジャーナリスティックな言語は語れないのである。
これは文学の特権性を意味するのではなく、単なる性格的な意味に過ぎない。
構造的に政治性に無自覚でなければやってられない表現芸術がある。
レニ・リーフェンシュタールには装置とスポンサーが必要だったし、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーにはオーケストラが必要であった。
シュペーアが「理想」を実現するためにはヒトラーが必要不可欠であったし、建築家は政治性に無自覚でなければ成立しない職業であるがゆえに行動として結果的に政治的である。
文学がジャーナリズムに対してシニフィアンであるのはこれらとはまた違うように思う。
文学は創造する上で基本的にはほとんどコストがかからない創作である。
従って、やろうと思えばツールの限界の範囲内であればなんでも出来る。
ただ、文学でジャーナリズムをやるならば、ただのジャーナリズムをやるべきである。
「歴史の真実」とやらをあぶりだすのであれば歴史小説ではなく歴史学をやるべきなのと同じことである。
シーニュの否定に文学のオリジナリティがあるのであり、シーニュの明確性を前提とするから村上春樹の行動に批判が生じるのである。
それに反対する擁護者たちは文学の特権性を主張しているのではなく、文学のオリジナリティを主張しているのである。
しかしそうした文学のありようが、ジャーナリズムの視点で批判されるのも、これもまたジャーナリズムの自律性からすれはごく当然のことであって、であるからして私はどちらの見解にもうなずけるし、どちらとも相応の正当性を持っていると思うのである。
ジャーナリズムの文脈でなお、文学のオリジナリティによって批判が回避され得るのだと誰かしらが考えているのだとすれば、それこそそれは特権性と呼ぶべきである。
しかし文学が持つ性格をジャーナリズムの文脈のみで扱えると思っている人がいれば、その人はただ文学を知らないのである。