手塚治虫の凄さの意味

手塚治虫はそんなに凄い人じゃないと思う
作品の絶対水準を見るならば、手塚治虫(の作品が)“そんなに凄いはずがない”とは言えると思う。ブックマークのコメントでもこの点には同意の人も多いようだが、手塚の偉大さとは何よりも第一にパイオニアとしてのそれであって、作品の質については今日的には留保が必要だろう。


マンガはマンガであって、映画でもなければ文学でもない。アニメーションでもない。どうしてこういう当たり前のことを改めて言わなければならないかと言うと、優れたマンガとは、マンガの特質を最大限に引き出した表現芸術であるはずだということを忘れている意見が多いからである。
映画の手法をマンガに持ち込んだということは、マンガの表現枠を広げたという功績にはなるが、作品の絶対水準で見るならば「ならば映画を作ればいい」ということにしかならない。
プロットの巧みさ、ストーリーテリングの上手さ、問題意識の先進性、それらはマンガ家に対する評価としては二次的な要素である。これは同じことが小説家や映画作家についても言える。
なぜならばその表現者はプロット作成者やストーリーテラー、思想家ではなく、それぞれのツールを用いた表現者だからである。
従って、かような要素のみで表現者を評価する批評はそもそもナンセンスであると言える。かような要素が表現としてどのように効果的に落とし込まれているかを評価するのが作品を評価するということだからである。そうした要素のみで作品を評価できると思うこと自体、権威主義の表れであり、であればこそ、単に権威主義へのアンチに過ぎないとしても、「手塚はそんなに凄くない」と言うことに意味があるのだ。


少し別の話をしよう。
声優の永井一郎Wikipedia のページに以下のようなエピソードが記されている。

東野英治郎から「洋画の吹き替え、アニメのアフレコなど自分の尺で演技出来ない、芝居とは呼べない外道の所業」と声優がバッシングを受けた時、猛烈に反論して論駁し声優仲間たちの立場を守った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E4%B8%80%E9%83%8E

自分の尺で、声優が演技を出来ないのは事実であり、それは表現上の制約である。ただし制約はプラスに生じることもある。端的な例は、推理小説であって、映像が無いゆえに描けることもある。
アガサ・クリスティの「検察側の証人」などは、映像化もされているが、同一人物の役を別人が演じる、極端な特殊メイクを施す、などの「嘘」を交えない限り映像化は出来なかったわけで、それがもともとは舞台用の脚本であるということも考慮すれば、舞台では「しのげる」嘘も、映像では「嘘」を交えない限りしのげないという、表現手段に基づく限界が生じていると指摘できる。
「出来る」ということは同時に「出来るがゆえの限界」も生じさせるということだ。
舞台での芝居、演劇も、声を観客に届ける必要があるのだから基本的には「ささやく、つぶやく、ぼそぼそと言う」ことは出来ない。それは演劇の限界ではあるが、演劇の手法として、「ささやくように見せる」という様式を他の手段で見せることは出来ない。


今日のマンガ表現における最も重要な特質は、それは絵・文字・心理を同時に描きこむことが可能だということである。
例えば以下のようなコマを想像してみよう。
背景は真っ白。二人の人物が対面している。うち、ひとり(人物A)が「まあ、この場は適当なことを言っておこう」と思っており、それが吹き出し無しの心理として文字で描かれている。その人物が吹き出しの台詞で「まあ、なんとかなるよね」と発言している。それに対してその吹き出しに覆いかぶさるようにして、相手の吹き出しが「おまえ、適当にやり過ごそうとしてるだろ」と発言している。
このコマは、
1.白背景によって「しらじらしさ」の心理描写を絵(絵の不在がそのまま絵となっている)として提示している。
2.人物Aの心理と発言が同時になされていて、それが(タイムラグなく)同時に提示されている。
3.それに対する相手のレスポンスが「じゃっかんのタイムラグを伴い、しかしほぼ人物Aの発言を遮る程度の時間を描写しつつ」吹き出しに覆いかぶさって別の吹き出しが提示されることによって表されている。
という、重層的な情報を一瞬に提示している。
こういう表現は今日ではマンガ以外の表現ではほぼ不可能であり、すぐれてマンガ的な表現方法だと言える。
絵と文字、そしてそれらを用いた心理を同時に提示できるということがマンガの表現としての本質的な特徴であるが、それらが出来ないということは他の表現手段にとっては制約であると同時に、ある種の自由ともなる(そしてそれが新しい表現メディアの登場にも関わらず古い表現メディアが消滅しない根本の理由でもある)。


今日のマンガの文法においては、描かれているコマは現実の描写であると同時に心理の描写であることが多い。一番、ベタな方法は、ベタ、真っ黒の背景であり、現実の光景にあって背景が真っ黒になることは無いのだから、ベタ背景は心理描写の表れである(こうした方法は背景を写しこんでしまう映像には困難である。技術によって「出来る」ことが、そのまま「出来ない」ことになっている一例である)。
その黒背景で心理的な言葉を提示する時、白抜きの台詞で提示されることが多いが、これには反転文字を印刷するというテクノロジーの支えが無ければ出来ないことであって、初期のマンガにはこの手法は用いられていない。
マンガの技術と言う時に、テクノロジーとテクニックの両方の意味があり、それぞれが原因と結果の関係にある。
他には細かい目のスクリーントーンを印刷することは以前は出来なかったが、今は出来る。グラデーションの表現などは印刷技術の向上無しには表現方法として成立できなかったのである。


今日的な意味におけるマンガ表現の歴史は短く、せいぜいが戦後直後から始まる。
ここで言うマンガ表現とは単に技術的な意味だけではなく、「マンガをもって何を描くのか」という心理的な障壁をも含んでいると見なすべきだろう。
日本以外の国にマンガ技術が無かったわけではない(バンド・デシネやアメリカン・コミックなど)。むしろバンド・デシネなどは日本のマンガを凌駕する技術も持っていたと言ってもいいだろうと思う。それでも日本のマンガが manga と表現するより無い独自性を獲得したのは、主に心理的障壁からの自由さの度合いにおいて特殊な状況があったからである。
そういう文脈において、手塚治虫が果たした足跡は非常に大きい。
手塚治虫は「前提を作った人」と見なすことは出来るかも知れない。ここで言う前提は必ずしも技術の意味ではなく、今日のマンガ技術において直接的かつ致命的により重要なのは、70年代の少女マンガ、特に24年組の書き手たちであって、手塚のパイオニア性は彼女たちを通して二次的に規定される性格のものである。


手塚は自己革新の人であり、「鉄腕アトム」を描いていた人が同時に「きりひと讃歌」を描くことは一般的に言って非常に困難である。その困難をやった人だが、それが同時に作品の絶対水準の質を担保するものではない。
MS-DOS を今日も後生大事に用いている人がいればそれはただの権威主義であり、バカである。コンピューター技術と同じく、マンガ技術も歴史が浅く非常に若いのだから、その革新の技術の速度は速く、技術の陳腐化がはなはだしい。
こうした技術の革新がほとんど起きていない文学や、相対的には小さい音楽と比較して、「シェイクスピアはそんなに凄くない」「ビートルズはそんなに凄くない」という「皮肉」の例を挙げるのはまったくもってナンセンスである。
それはマンガ表現技術のパイオニアとしての手塚の功績をむしろ軽視するものである。
手塚は時代的限界の中では他に類例が無いほど自己革新を成し遂げた人である。おそらく彼以外の誰にも難しいことではあっただろう。
しかし彼の晩年の作品である「アドルフに告ぐ」を読めば(他の作家によるマンガ技術の変革がほぼ一段落していた時期)、小さなコマを連続させる手法やほとんどペンのみで描いた(スクリーントーンを用いない)画面、構成の保守性、キャラクターの線(ギャグマンガにそのままスライドできるような線)、表現技術だけを見ても限界が如実に提示されていることは疑うべくもない。
手塚治虫のブランドが無ければ、今日的な水準に達しているとは見なし難いのである。