カトリックとか、聖心とか

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090706
↑を読んで。
「沈黙」が甘えだというのは、そうかも知れない。遠藤周作がどうしてキリスト教徒なのか、不思議だった。この島国のしたたりから生まれたような常識的な知識人でありながら、キリスト教徒たらねばならない必然もないまま、なぜわざわざ信仰を持つのか、それが未だに理解できない。
遠藤の人となりからしてどう考えても不要なものに思えるのだが。
奇しくも同じ綾子だが、曽野綾子三浦綾子には非常に固いものがある。狂気と呼べばいかにも安っぽくなるのだが。三浦のそれが内向してゆくのに対して、曽野のそれが拡散してゆくのはプロテスタントカトリックの違いか。
三浦は能力的に、そして性格的にジェスイットにはなれないだろうが、曽野はどこに行ってもオーガナイザーになりそうな気がする。
曽野は日本財団の理事長を務める前から自前の慈善団体を運営していたのだが、ある時、彼女の団体が資金を出して運営していた途上国の学校を彼女は視察に行った。その学校の教師の指導のもと、子供たちが歓迎の会を開いてくれて、歌や踊りを披露したのだそう。
それに対して、曽野は、踊らせるために学校を建てたのではないと言い、数学の授業でも見せてくれればよかったのにと不服を言う。確かにごもっともではあるけれど、子供たちが歓迎の会を開いてくれてそのような感想がまず出る人は、日本人の中には少ないだろう。
なるほど、カトリックとはそのようなものなのかと私は思った。
聖心にはなぜか、そのような経営感覚を持つ女がいて、そう言えば、美智子皇后も聖心だったなと思いついた。
美智子皇后と言えば、国母の鑑のような慈愛の人という印象もあるが、御製の歌を読んだり、おりおりの講演の文章を読むにつけ、突き放した視線も持っていらっしゃるようにも思う。
ローマ教皇の慈愛が政治の極限でもあるように、彼女の慈愛はどこかバチカンの匂いがする。