リアリズムを見失っているのは誰か

本題の前に「キリスト教は独善的」と小沢氏、仏教は称賛の記事で書かれている小沢発言について簡単に評す。仏教にも様々な問題はあったが、中心が欠けているため、啓典宗教に較べれば歴史的に比較的「寛容」だったのは傾向的事実と言っていいだろう。小沢氏と同じように考えている人も少なからずいるだろう。
問題は、現在の状況で、氏の立場でそのように発言することの是非である。「神道は独善的」と言われた時、私たち日本人はどのように感じるだろうか。あるいは「イスラムは狂信的」という発言と、この発言にどれほどの違いがあるのか。
キリスト教は独善的と言って、現在のキリスト教徒から感情的な反発が生じるのは避けがたい。言うならばせめて、たとえばカトリックのこういう方針は独善的というような具体性を帯びさせるべきである。
新進党が解党されて以後、小沢氏の言動はすべて政局政局で動いているように感じる。深読みを刷ればこれは、キリスト教に極めて敵対的な某宗教団体に対するメッセージとも受け取れるが、外交上どのように見られるかと言う点にプライオリティを置いて、発言を律して欲しいものだ。


http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-4724.html
こちらの記事を批判したいと思う。
雪斎先生は、東北の身売りと食糧自給率をつなげて話しているが、両者には基本的には関係の無い話である。当時、八千万人が住んでいた日本列島で大量に餓死が出たわけではなく、東北の貧しさは問題ではあったが、それは所得配分の問題である。戦中・戦後直後の状況と混同していないか。
戦前の食糧自給率はほぼ80%で、輸入は砂糖や小麦など、国内で生産されていないか生産量が少ない補助的な産品が中心だった。戦中・戦後は生産性と流通の問題で飢餓が生じたのであって、環境的な問題で発生したのではない。
八千万人を基本的には養えていた日本列島で、農業技術の発展があって一億二千万人を養えないはずが無い。
日本の食糧自給率が低いのは、商工業に比較特化した傾斜生産と経済合理性の結果であり、それを踏まえてなお食糧自給率を高めに維持しようとする意思の欠落の問題である。
その意思の欠落は日米安保下の自由貿易の結果、生じているものであり、食糧自給率が低いのは競争力のある農産物を輸入しているからである。食料が不足しているから輸入しているのではなく、輸入しているから自給率が下がっている、国内農業の経済合理性が維持できないのである。
食糧自給率の低さを問題視するならば、農業保護主義を採用せざるを得ず、それはアメリカ農業の権益を脅かすことになり日米同盟の観点からはマイナスになる。
食糧自給の低さを対米依存の根拠とし、それゆえに日本の独立性を否定するが如き雪斎先生の論は極めて倒錯的であるし、リアリズムを踏まえていない。
せめて通商路、シーレーン依存の話をするべきではないか。
オオカミが来るよ、あるいは来ないよ、と言ってデジタルな選択を迫るのはリアリズムからかけ離れた言動だ。
具体的事実から敷衍して、ある行動をとった場合、あるいはとらなかった場合、現実的にどのような結果が生じるのか、その結果の損得や耐性を論じるのがリアリズムではないか。
雪斎先生のこのところの言動は至極残念遺憾であると評するよりない。
さて、リアリズムで言うならば、明治日本でロシアと対決するのは大博打であった。国家が博打を打つこと自体、リアリズムを重視するならば問題であったろう。日露戦争での結果的な勝利が、博打を打つことに対する抵抗をやわらげてしまい、日米開戦を招いたと評することも出来る。
仮に、それでも日露戦争当時は、大博打を打たざるを得ない状況があったのだというならば、それほどの程度の問題に直面する局面はそうはないだろうとしても、あるいはそのような状況に直面すること自体、外交的敗北であるとしても、今日においても、いかなる国ともまったく摩擦なく過ごせるはずもない。それがリアルである。