外国人参政権に反対する理由

<許容説>
判例と同様、私見においても外国人参政権については私も許容説に立っている。
・ここで言う参政権地方参政権のことである
参政権は広義の参政権、つまり被参政権も含まれる
つまり、外国人参政権を認めるも認めないも法律次第であるという考えである。その意味では、反対とは言っても、世論の賛成があるならばそれを押してまで反対するというほど強固なものではない。
許容説の枠内における反対ということだ。


<地方自治と法律の関係>
地方参政権を授与するとして、根拠となるのは住民共同体としての地方自治であるのだから、外国人参政権を許容するか否かの主体は国民ではなく住民であるべきだと思う。仮に外国人参政権法が成立するとしても、実施にあたっては住民投票や地方議会の議決を経る等の、「固有の住民」の許容意思表示が必要であろうと個人的には思う。


<代替手段としての帰化>
日本国が純粋に法的な存在であるならば、公民権の授与の基準は可能な限り一律であるべきである。参政権を得るに当たって帰化という手段があるではないかと言うのは、手続き的には妥当だと思う。ただし、日本国の慣行に、民族国家としての性格があることは否定できない。このことが、日本国民になるということがすなわちエスニックな民族性を捨てて、ヤマト民族に同化するという意味を生じさせている。
このことについて、多数派であるヤマト民族が法と歴史、国家と民族を切り離す努力をしないうちは、ならば帰化すればいいではないかと簡単に言えるものではないと思う。
具体的には本来、あくまで法的な措置であるに過ぎない帰化という行為から、同化政策の意味合いを徹底的に拭い去らなければならない。
氏名については、エスニシティを尊重し、なおかつ、少なくとも永住権者に対しては無条件に帰化を認める措置をとる必要があると思う。
こうした措置をとらずに、外国人参政権を許容することは、それぞれが法的な性格よりも民族的な性格を優先するある種の分離主義として作用してしまう恐れがあり、法的な存在であるべき国家において、歴史的性格から生じる民族的な同調圧力を温存することにつながる。


<国民国家への打撃>
階級的に交わることがない富裕層と貧困層が同胞たる基盤を持てるのは国民国家の枠組みがあればこそであり、その基盤の上に福祉国家が築かれる。ウェストファリア体制以前の王朝的世界において、統治階級と民衆が明確に分断され、同一性を保持していなかったことを忘れてはならない。同様にグローバリズムは王朝的世界への回帰であり、そのコスモポリタニズム性が弱者としての労働者を追いつめていることを考えれば、国民国家の再構築は危急の課題である。外国人参政権はコスモポリタニズムを強化する意味合いがあるがゆえに、国民国家の再構築への打撃となる。