象徴天皇制の危機

習近平特例天皇会見問題(適当な言い方はないものか)は思いのほかおおごとになってきた。
たぶん誰もここまでおおごとにするつもりはなく、言い合いを重ねているうちに、危険な深みにはまりつつある。天皇陛下美智子さまと共に営々と築いてこられた象徴天皇制の実体が瓦解しかねない危機である。
玄倉川さんは、

だが、「異例の会談」は机上の憲法論ではなくすでに政治問題となっている。
仮に(あくまでも仮に)憲法解釈の点で鳩山氏や小沢氏が間違っていないとしても、政治的責任を逃れることはできない。
政治というのは理屈だけで動くものではない。
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/96897c41e222a4451999fae771316653

とおっしゃる。しかし私は机上の憲法論の問題とは見ない。現実の憲法危機である。
鳩山首相小沢幹事長への評価は同意するものの、そんなことはこの危機の前には小さな話だ。
この問題がここまでエスカレートしたのは、むろん、「公的行為であるから内閣の助言と承認を必要としない」との論が生じたからである。
日本国の共和政治原理を真っ向から無視したこの異端を、少なくとも読売新聞は支持しているようだ。朝日も今のところ、「小沢政治」批判の方に軸足を置いている。
両新聞が戦前、美濃部博士を守りきれずに、政府のカオス化を招いたことを、両新聞の中の人たちは教訓として思い起こして欲しい。
菊池武夫のような人物は現代においても少なからずいるのだから(そうでなければそもそも天皇を統合の象徴としておいて置く利益もないのだから)。
これを言い出したのが共産党の志位委員長だというのは皮肉というしかない。共産党内の論理からすればそもそも天皇の公的行為自体を否定しており、国事行為に絡めて公的行為が拡大するのを批判しているのだから、ここで国事行為の論理を持ち出すこともまた批判するというのは、それはそれで筋が通っているが、この文脈であの発言がどのような意味を持つのか、そこまで思い致さなかったのだとすれば、志位委員長の現実の政治家としての罪は重い。
旧弊な言い方を敢えてするならば、日本の憲政を危うくするという点において、万死に値する。


今回の鳩山首相小沢幹事長に対する批判として、順当なものがあるとすれば、それは陛下のご健康の問題に絡めた批判だけだろう。陛下は政府からあてがわれた「公務」をえり好みできるお立場ではないことを踏まえれば、陛下のご健康を守る盾となるべきルールを安易に軽く見ることは、人権問題に直結するからである。
陛下が既に後期高齢者となっておられることに思い致せば、公務のむやみやたらな押し付けや急な変更は慎重でありすぎるほどに慎重であってしかるべきだろう。
これは別の話だが、皇太子殿下に摂政となっていただくことも、今後は現実の課題として思案する必要があるだろう。
さて、今回の件が外交において政治利用にあたらないということについて、考察を重ねてみたい。
天皇が各国の要人と接遇することは、個人として会見しているのではなく、公務として会見している。その時の天皇の立場が象徴であればそれは国事行為であるし、国家元首として接遇しているのであればそれは行政行為である。いずれにせよ内閣が管轄することである。
さて、このこと自体を政治利用であるという意見は実際には少なかった。批判する人たちが問題視しているポイントは、「ルール」の変更に恣意性が入り込む以上、それは政治性を帯びる、ということだった。
しかし外交と親善を分けることは出来ない。親善もまた、行政の行為であって、行政の行為で無いならば、行政府である外務省や宮内庁がこれに関与することがあってはならない。
宮内庁は政府の一員なのであって、天皇の臣下ではない。
そして行政の行為であるならば、行政解釈の権能は官庁や官吏にあるのではなく、内閣にある。
それが司法解釈によって、違憲判断がなされない限り、違憲とはならない。
親善が政治性を帯びる例としては、国公賓、あるいは首脳訪問に対する返礼訪問の扱いが実例として挙げられる。
昭和天皇の時代、天皇としては二度しか外遊しなかった昭和天皇では、返礼訪問が難しく、皇太子殿下ご夫妻(今上両陛下)が名代としてその任にあたっておられた。
平成になってからは、両陛下もそう頻繁に外遊は難しく、東宮妃殿下のご不例もあり、義理を果たすのも滞っている。あくまで親善を目的としているならば、順序ごとに、返礼訪問してゆくべきだろうが、実際にはそうはなっていない。義理を果たしていない国もある一方で、アメリカや中国など数度に渡って訪問している国もあり、親善にも政治性が及んでいる実例となっている。
行政権限におけるルールの政治性、ルールの変更、あるいはルールの特例の政治性の判断は内閣にあり、ひいては議院内閣制の主権者である国民が審判することである。
問題とされるべき政治性と許容されるべき政治性を分ける基準は、ルールの特例を認めたということにあるのではなく(その許認の権限は政府にあり、行政行為は政府の統制下にあるのだから)、行為の実態にある。
外交と親善が不可分であり、外交がそもそも問題とされるべき政治性を帯びているとするならば、親善行為そのものを禁止すべきであり、天皇の公的行為をすべて認めるべきではない。
ここで天皇国家元首であるという解釈が、非常に問題となるのは言うまでもなかろう。
天皇=外交における国家元首であるという現実の前提を踏まえて考察するならば、私見では問題とされるべき政治性とは、
1.国内的な党派的利益
2.政治の実務的課題
であろうと思う。
一視同仁の思想からか、大国小国に関係なく、同列に扱うことを陛下は欲しておられるようだが、そのおぼしめしの是非はともかくとして、平等であるべきは外国や外国人に対してではない。国内の党派に対して平等であるべきなのであって、公務において国益が前提となるのは、行政行為である以上、当然のことであるし、それが前提とならないならば外交公務員として背任である。
陛下は日本国の天皇なのであって、世界の人たちのために存在するのではない。
無論、陛下のおぼしめしは個人としては非難されるようなものでは決して無いし、むしろ賞賛されるべきものであろうが、陛下はそこに個人として立っておられるのではない。