雲、流れて

大学予備門在学中に漱石は房総へ足を伸ばし、その旅行記を漢文で書いたと言う。子規にそれを見せるや、頼まれもしないのに子規が赤字で添削したり、感想を書き込んだという話が、先日、NHKのとある番組で伝えられていた。
笑ってしまった。笑ったのは、彼我の余りの落差に、である。
漢文でも、文語文でも、口語文でも、むろん英文でも、何一つ、私が彼らに敵うものはない。当時の大秀才とは言え、しょせんは高校生である。その高校生でさえ、軽々と漢文で紀行を書いていたのだ。
敗北感に打ちのめされる暇さえない、もはや笑うしかない隔絶さである。
勉学をするのに、明治が今よりも適していたということは絶対にあるまい。
それでいて、この人品の差よ。
おのが勉学が一日遅れれば国家の歩みもまた一日遅れる。その気概を持つ青年が当たり前のようにいたからこそ、明治日本は土くれの中から浮かび上がったのだと今更ながらに思う。
もっとも、それら新青年たちも、維新の殺戮の中を生き残った元勲たちから見ればよほど小粒に見えただろう。
これは古代エジプトの頃からよくある「最近の若い者は」とはまた違った現象だと思う。
時代の動乱が収まり、安定と繁栄の時代が訪れると、無能であっても許容されるからである。
むしろ、ある種の無能さは称賛され、それが押し付けられる時代へと移ってゆく。
その中から再び、疾風怒濤型の青年を多くの社会は生み出せずにそのまま停滞の奈落へと埋没してゆく。
司馬遼太郎は英雄を必要とする国は不幸であると言った。
漱石や子規のような、超人めいた青年たちを当たり前のように抱かなければならなかった明治は不幸な時代だった。しかし英雄を必要としていてなお、英雄がいない国は更に不幸であっただろう。
不幸には終着点は無い。底無しである。
この国の歴史上最も幸福だった半世紀は終わりつつある。そこにある選択は、不幸か、更なる不幸かだけだ。