悲愴

民主党の支持率が下がっても自民党への支持率が上がらない。鳩山首相があれだけの失点を重ねても(少なくとも実母からの献金・脱税問題は首相辞任はむろんながら、議員辞職もあってしかるべき問題だろう)、世論が辞任を求めるまでには盛り上がらない。
確かに、異例のことではある。異常の中にいるとも言える。
自民党はこのことについて悲憤慷慨するばかりでなく、やはりまずおのが来た道を批判しなければならないのではないか。
民主党の支持率をめぐってはひとつのミステリーがある。男性に較べて、女性の支持率が低い。民主党の支持の中心になっているのは、「働くお父さん」たちであり、社会の中心から離れれば離れるほど自民党への支持が増えてゆく。
千葉法相が矢継ぎ早にこれまで滞留していた法務行政を促進していることからも分かるように、マイノリティへのケアはむしろ民主党の方が厚いというべきである。しかし民主党はそうした層を充分に取り込めていない。
思うに、ここにはやはり日本に特に顕著な世帯主義の影響があるように感じる。
私は夫婦や家族の絆をもとより信用していない。教師から体罰を振るわれる時、痛むのは子の身体であって、親ではない。親はむしろ「先生、どんどん殴ってください」というようなことを言う。
夫や父が、社会の現実の中でさまざまな矛盾や危機感を抱いていても、妻や子がそれを共有するのは難しい。今日明日の飯のことを考えずに済むのは、生活費を工面する苦労を知らない者たちだけである。
サイレントマジョリティは物も言わずにただじっと見ている。社会の現実を背負っている者たちは、くたくたになるまで働いて、巨大掲示板で遊ぶ暇も無い。そうした人たちが、自民党ではなく民主党を支えている。
自民党はそうした人たちから見限られている。
太平洋戦争の時は既に違っていたが、日露戦争では様々な合法的な徴兵逃れの方策があり、多くの人たちがそれを実行している。例えば、一家の長子やいわゆる本家の当主であれば徴兵の対象にならなかったから、断絶した係累の名家などに次男三男を送り込んで一家を興させる、これがやたら明治期の士族の家系に「養子」が多い理由のひとつである。
夏目漱石は塩原家の人であれば当主であったから徴兵の対象にならなかっただろうが、夏目家に戻ったがために、その危険に直面することとなり、本籍地を北海道へと移した。当時の人としては移転が多い生活をしていた漱石だったが、おそらく北海道へは一度も足を踏み入れていないだろう。これは北海道が開拓地であるため、特別に徴兵は免除されていたからゆえの対策である。
別に今を生きる私がそれをことさら批判する気にもなれないが、福祉制度も整っていなかった当時の日本において、働き手を兵隊にとられて生活が困窮し、戦死でもしようものなら一家が離散する例が数多あったことは記憶しておくべきである。
風雅を気取る「それから」の代助のような高等遊民の生活が、実際に民衆の血汁の上に築かれていたことを知るべきである。
太平洋戦争にあっても、兵を送り出す側の人と、兵となる人の間には隔絶があった。勇ましいことを殊更言ったのはいつも送り出す側の人たちである。
それと同じことが、現代においても、家庭の中のような小共同体にあっても起こり得るし、起きている。
そうした状況の中で、現実に弾丸の下をくぐり抜けている人たちが物も言わずにただひたすらに民主党を支持している。頬ずりをしたくなるほどに愛おしく、痛ましい。
民主党の人たちはその重さを知るべきだ。
自民党の人たちはそうした人たちから支持を得られないことに衝撃を受けるべきだ。
政治経済、天下国家を語って衆に優れた論客は数多いるだろう。しかしそのうちのどれほどが、この底流の悲愴を感じ取っているだろうか。言葉を連ねて名人である人たちのうちどれだけが、その悲愴をおのがものとして語っているだろうか。
私はそこに、ブログ言論の多くに、空虚を感じずにはいられないのである。そこにはこの悲愴が欠落しているからだ。