龍馬伝、第一話、感想

プログレッシヴカメラというらしい。ざらりとした質感の映像は、明らかにVTRやフィルム撮りの質感と違う。
VTR撮影よりはフィルム撮りの質感に近いが、フィルムよりは明るく、奥行きがある。今までの大河ドラマがすべて粗悪に見えてしまうほどの、革命的な質感の違いだ。
NHKでは既に「白洲次郎」「坂の上の雲」で用いられているが、大河ドラマでは初めての使用になる。今までの大河ドラマでは、セットや小道具のチープさが目立つことがあったが、この新しいカメラではリアリティと説得力を持たせることが出来ている。
もうこのカメラで撮られたドラマを見たならば、「ハイビジョン撮影」など目もあてられない。


龍馬伝では第一話からいきなり、土佐の特殊にして苛烈な身分差別を正面から描いた。
他のブログの感想を読んでいると、「いくらなんでも西部劇の無法地帯のような、あんな無茶苦茶なことは演出だろう」という意見もあったが、土佐の身分差別は本当に無茶苦茶だったのだ。
龍馬自身も深く関わることになる井口村刃傷事件のようなことも実際に起きている。
江戸時代にあってさえ常識外れの無法が罷り通っていた責任はひとえに藩祖・山内一豊のせいであるが(江戸時代の藩祖のうち一二を争うくだらない男だ)、NHKはその男を美化して描いた罪業が過去にある。
ともかく、1600年の関ヶ原の戦いの結果が幕末まで社会規範を規定したと言う点で、土佐は特殊な国だった。
下士郷士の制度は他国にもあったが、例えば長州毛利家や米沢上杉家では「元は同僚であった武士をリストラ」する過程で生じたものであり、土佐のような苛烈さは無かった。
土佐の場合は、進駐軍(上士)対抵抗軍(下士)に擬せられる構造があったのだが、関ヶ原から江戸時代初期にかけての大名家取り潰しにあって、そのような苛烈さが生じたのはただ土佐だけである。
山内一豊がいかに国主の資質が無かったかを示している。
その、山内家の藩祖以来の累代の無能のツケを、関ヶ原から遥か遠い龍馬たち土佐郷士が支払っていたことになる。江戸の大名家にも藩祖の個性によって規定された代々の悪逆家と呼ぶしかない家があり、山内家と津軽家が双璧だろう。
後に、土佐は自由民権運動の本場になってゆくが、上士には過去の反省があり、下士にはお上なにするものぞという気分があり、それもまた、土佐の歴史の産物であるかも知れない。


こうした時代背景をきちんと描きこむ姿勢、ドラマの冒頭、高知の新聞記者が岩崎弥太郎に龍馬のことを尋ねに来訪する場面(同新聞の記事が龍馬再発見の契機となった)など、脚本家の「脚色はあるが嘘は書かない」という姿勢が見て取れる。このスタンスこそ、近年の大河ドラマに最も欠けていたものである。
去年の大河ドラマは本当に酷かった。私は大河ドラマを見続けて、もう20何年になるので、「天地人」よりも酷い作品があったのを知っているが、それでもあれは、限りなく最悪に近い出来だった。
しかし、視聴者の受けはそこそこ良かったらしい。
私から見て駄作ほど受けがいい、最近の傾向を踏まえれば、「龍馬伝」は視聴者の支持を得られないかも知れない。
しかしそれでもなお言うならば、「龍馬伝」第一回はパーフェクトに近い出来だった。
傑作になるかも知れない。