男はケモノではありません(3)

http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091205/p2
何というか、阿呆らしいの一言に尽きる。
批判されているのは、「仮に公益性があったとしても、外在制約が認められるべきではない」ということなのに、「公益性があるから却下」と言っているに過ぎないからである。
この論理に最も近い現実の事例が痴漢冤罪であろう。
痴漢冤罪が多発する構造を批判する時に、「なぜ痴漢をなくそうとしないんだろう」「痴漢によって女性が抑圧されてきたのだから男性は冤罪を甘受すべき」と言うような「再批判」が多々あるが、構造としては今回の事例とまったく同じものである。
犯罪と、国家による抑圧は異なるものであるし(そもそも今回に限らずこれを混同している人たちが多い)、犯罪が重大な人権侵害をもたらすからと言って、それを抑止するために国家による何らかの政策によって重大な基本的人権の侵害が正当化できるものではない。
犯罪は直接的には犯罪者の責任であるが、国家による抑圧は直接的にもそれを主張する人たちの責任である。
http://d.hatena.ne.jp/KIM625/20091205/1260022270
上記の記事などは、彼の属性によってではなく、行為によって自らがアウシュヴィッツの看守となっていることにただひたすらに鈍感なのであって、問題は属性ごとの利害を社会的な文脈で調整しようとする意思の欠落である。
たとえ直接の被害者であったとしても、その属性から生じる利益は社会的な文脈において無制限に肯定されるべきではないのに、まして、単に「害を被りやすい可能性が高い属性」という直接のそれぞれの事案には落とし込めない、つまりおのずとファシズム性が強い事案については、異なる属性の人権にも配慮した社会的な調整が必要になってくる。
余り時間がないので、後日書き加えることにする。