裸の真実

世の多くは虚飾に満ちていて、そうであるのがあまりにも当たり前であるので、人にとっての虚飾は、ヤドカリにとっての巻貝のような、自己以外に延長された自己であるかのような、無意識の美しい誤解、不可欠の虚構である。
クレーム対処のような場面で、「このたびはご迷惑をおかけいたしまして、大変申し訳ございません」と言うのと、「あ、ごめんね」と言うのとではビット数的には大差はないが、人間社会的には大違いである。
人間社会は虚飾に満ち、虚飾によって他者を断罪し、虚飾によって支えられている。
しかし学問とは、構造を明らかにするということなのだから、そこで見出される言葉は、冷酷で、冷淡で、非情で、無礼である。逆に言えば、同情や優しさ、暖かさや丁寧さは、真実でもなければ事実でもなく、単に人間社会に属する虚飾に過ぎない。


仙石官房長官の「暴力装置」発言は、特にあの世代のインテリによくみられる癖というか、陥穽に仙石さんもはまり込んでしまったというに過ぎず、50年代、60年代の立て看文体がよくよく抜けないのね、という感想しか持たない。言うなれば、「社会科学」癖のひとつであって、学術用語というほどのこともない。
その発言を問題視すること自体、オルテガ的な衆愚現象のひとつであって、以前ならば「これだから教養がない奴は」と批判する人が鼻で笑われておしまいだっただろう。
「知らないことは恥ずかしいこと」
という教養主義の大前提が崩れたのはいつのことだろうか。パラフィンと箱がついている本でなければ本とは認めないという旧弊な絶対教養主義から私たちが遠く離れているのは確かなことだが、それでも、第二次ベビーブーマーの私でさえ、「暴力装置」発言の批判者より発言者の方に距離的には近い。しかし私たちが上った高台にはいつからかはしごがなくなってしまった。
素で「暴力装置とは何たる失礼、何たる侮辱」と怒っている人たちを見て、私が感じるのは嘲笑でもなければ困惑でもなく、恐怖である。
だが、「民主党政権」の官房長官である仙石氏に、「こちら側の恐怖」を共有する資格はない。過去における類似の発言だった柳沢伯夫厚生労働大臣の「産む機械」発言の際、おそらくその社会科学性を認識していながら、民主党は敢えてポピュリズムに乗ったからである。
「失礼-丁寧」の文脈で他者の発言を処理したのだから、自分の発言も同様に処理されるのは道理である。