アフガン親米政権崩壊が告げた真の21世紀の開幕ベル

仙谷由人官房長官が、自衛隊を指して暴力装置と評した時はかなり批判されたが(その用法自体は、社会科学では常識と言えるほど当たり前の用法である)、アフガン親米政権(ガニ政権)が崩壊し、タリバンがアフガンの首都カブールを陥落せしめた現状は、政治と社会の根底が暴力装置に依存していると言う当たり前の事実を、剥き出しにして提示してみせたのではないか。

冷戦期および冷戦後の極めて虚構的な時代にあっては、政治とは社会の枠内での、運動や椅子取りゲームであったわけだが、改めてそれらの行為が成り立つためには、暴力装置が機能していなければならないと言うことが歴然とした。

タリバンが、女性の権利を抑圧している、おそらくは今後何を言うとしても、現場ではもっと抑圧されるだろうと見通されることから、タリバンの慎重をフェミニズムの問題と捉えた場合、フェミニズムは避け続けて来たこの剥き出しの暴力において、いかに生存戦略的優位性を示せるか、と言うことが問われてくるだろう。

正義不正義と言う軸を敢えて無視した場合、体制間の生き残りゲーム的なゲーム理論的に捉えた場合、果たして民主主義社会とタリバン的な旧弊な中世的な価値観のどちらに分があるのか、結果は民主主義者が言うほどはさほど自明ではないのだ。

近代的な最初のフェミニズム運動は、マリー・オランプ・ド・グージェから始まり、フランス革命期に端を発するが、まさしくフェミニズム運動と出生率の低下はその時から表裏一体だった。私たちの民主主義社会はいかに自由な社会となるとしても、そもそもそこに物理的に人間が存在しなければ社会としては成り立たないのだ。

タリバン的な戦略は、その直感的不道徳性にもかかわらず、そこまで分が悪いものではないし、民主主義社会がそこまで自明的に強固なものでもない。少なくとも文字文明成立後は、ほぼ100%と言っていい比率で、ありとあらゆる社会が家父長的であったことを踏まえれば、タリバンが標榜する家父長主義は、非常に無理のない、自然なものとすら言うことも出来る。ただ、そこで抑圧される少数派さえ無視すれば。

そのタリバン的なものを受け入れられないのであれば、社会の枠内の運動だけではなく、それを支える暴力装置の維持に、これからの私たちはもっと意識的でなければならない。

もっとも、フェミニズムもポリティカルな意味では、これまでまったく下部構造としての暴力装置の維持に無関心であったわけではない。むしろその関心は、もっとも醜悪な形で露呈してきた。

女性と言う生物学的なハンディキャップがある、としたうえで、フェミニズムは、暴力装置の発現に熱心なトップ男性層と結託し、弱者男性を死地に追いやることで、暴力への貢献を証明してきた。

最近ではフェミニズムがあたかもヒューマニズムであるかのような顔をし(「属性での差別を許せないと思うのであればあなたはフェミニストです」的な)、女権主義、と言うか女権のみ主義と言う意味での本来のフェミニズムをむしろ逸脱的なミサンドリー扱いする傾向すらあるのだが、フェミニズムヒューマニズムであるならば、そこにはヒューマニズムがあればいいだけのことであって、フェミニズムはそもそも不要なのである。そうではなく、女権のみ主義であるからこそフェミニズムが成立して来たのであって、あたかもヒューマニストの顔をしてみせるのはプロパガンダ以外の何物でもない。

フェミニズムは、歴史的な事実としても、演繹的に考えても、社会の枠内で合法的に仕立て上げられた弱者男性に対する暴力でしかあり得ない。

当然、フェミニズムと言う分断要素が入ることによって、強者男性と弱者男性は安定的な結合が困難になるので、生物学的にはホモサピエンスの社会とは男社会であったと言う傾向を踏まえれば、社会を支えるそもそもの暴力装置(男社会)が弱体化するのである。

もちろんその弱体化については私たちは耐えるべきだろう。しかし耐えながらもなおかつ社会を維持するためには、暴力装置に負荷をかけていると言うことについては意識的であるべきである。

例えば、現代の戦争どころか18世紀の戦争においてすら、兵士同士がフィジカルな肉体で格闘技的な意味で戦うと言うことはほぼ無いと言うことを踏まえれば、男女同権と言うテーゼを維持するのであれば、女性もまた戦うべきであるのは、当たり前のことである。3歳児でも銃の引き金を引けば敵を殺せるのだ。

タリバン的な社会が嫌ならば、一番嫌であるはずの女性たちが率先して戦うべきであり、その戦闘能力こそが、剥き出しの暴力の世界において、権利と発言権を担保するのだ。

女子教育として必要なのは家庭科などではない。軍事教練である。