大義名分

アグネス・チャンの主張というか、議論の進め方を見ていて思うのが、彼女の主張を徹底した際に生じる諸問題について、救済策をまったく考慮していないことだ。
この人はそういう意味ではまさしく活動家であって、思想家ではなく、学者ですらない。誠実な思考者とは言えない。
いかなる問題であれ、たとえそれが人権のような、今日、支持されているイデオロギーでさえ、それが徹底されれば他の重要な権利を棄損することが必ず発生する。時には、愛国主義を徹底すれば国を滅ぼすこともあるし、人権を徹底すれば人権を侵害することもある。
であるからこそ、より全体の利益を見据えた中道的な態度は、思想を現実社会に移し変える時には絶対に必要になるのだが、それさえも自称中立と揶揄しがちな人たち(そのうえで自らが弾圧者であることを昇華したがる人たち)には「他人の利益」などどうでもいいことなのだろう。

アグネス・チャンを活動家であると書いた。しかし、上記のようなことを考慮すれば活動家には二種類存在すると考えられる。ひとつには、ある層の利益を現実社会に破綻ないよう落とし込む活動を行う者。もうひとつは、そもそもその必要性を広く訴える活動を行う者。
アグネス・チャンは後者である。後者の活動家は、党派的でなければならず、盲目的でなければならない。そのように、徹底してある層・党派の利益に立つ者がいてこそ、利害調整の当事者が成立できるという側面もある。
しかし国会はそれらの利害調整を調整者として議論を通して行うのが役割であり、当事者として立つのが役割ではない。国会は国民全体の利益を代表しているからである。
アグネス・チャンが後者の意味における活動家であるのは、80年代の「アグネス論争」の時に既に明らかであった。彼女が、調整者の重要性を理解できず、理解する気も無いのは既に明らかであった。間違ったのは、彼女ではなく、彼女を国会に招請した人たちである。
彼女には議論は出来ない。議論の場に招請するべきではない人物であり、素材として処理すべき人である。
仮に彼女が言うとおりの世の中になり、その結果どれだけの弾圧が生じても、それがために怨嗟の的となろうとも、彼女は満足して信念の人として死んでゆくであろう。信念とはそうしたものである。
彼女を国会に呼ぶのは、三島由紀夫を国会に呼ぶのと同じことである。

今国会で議論されているのは、児童ポルノの単純所持についてであるが、彼女が所属する日本ユニセフは児童を性的対象として見なすこと自体を不適当と見なし、規制の必要性を被害者の存在しない創作物にまで拡大することを求めている。
彼女の言う「児童ポルノ」とはそうした創作物も含めてのことであり、それらについて「児童ポルノが無くても人は死なない」と言っているのである。
彼女自身は結婚もし、子も産み、当然、セックスもしているわけだが、むろんそういうことはしなくても人は死なない。彼女が自ら、他人に求めている「禁欲」を実践しているならばともかく、自らは謳歌しながら、他人にはそれを求めるというのは、単に醜悪である。
無論、性対象が成人と児童の違いはあるが、たまたま通常の性意識を持つよう生まれた者が、性的マイノリティの排除が可能であると考えるのは、性的マイノリティに対する差別である。
現実に児童を保護しなければならないという命題が厳として存在する以上、実際には児童ポルノを性的マイノリティの権利を考慮したところで、無制限に容認するわけにはいかない。
そこで現実の政治における調整が必要になるのだが、それはやむを得ず性的マイノリティに譲歩を求めることであって、我々の社会は、本来、性的マイノリティに対して「お願いする」立場である。
彼女に欠落しているのはこの意識である。
規制が必要だとしても、その規制が性的マイノリティの権利や他者の表現の自由を侵害するものである以上、必要かつ最小限のものでなければならない。
この意識が欠落している以上、アグネス・チャンは調整者ではなく活動家であり、性差別主義者である。彼女は自らの信念として、性差別を主張しているのである。
現在の日本ではヘイトスピーチもまた、言論の自由のうちであるかも知れないが、法の下の平等を基盤とする国会において取り上げるのが妥当な人物では無い。