改めて乙武さんの件を考えてみて

おやおやと言う感じである。久しぶりに炎上したらしい。もっともこの件で、乙武さんを擁護して叩かれるのであれば、これで叩く側に回ったり、模様眺めをするよりは名誉なことだと感じる。
乙武さんのこれに関する話を聞いて、私は最初に考えたのは、乙武さんは気軽にレストランに行くものなのだなということだった。彼の文章を読んでいる限りでは、彼の障害のことを失念しているけれども、考えたら彼はどうやって文章を書いているのだろう。そんな疑問を以前持ったことも思い出した(もっとも一人で文字を書いたりパソコンに入力することは出来るそうだ)。
乙武さんはただ単に車椅子を利用しているというだけではない。車椅子という移動手段さえあれば他のことは日常生活に不自由なくこなせる、というわけではないだろう。その知性は極めて明晰ながら、障害者の中でも身体的には特に重度のハンディキャップをお持ちで、彼の状態からすれば驚異的な自立を成し遂げていらっしゃるのだが、もちろん人手を借りないと出来ないことも多々おありだろう。
周囲のご家族のみではなくスタッフや広範囲のご友人にも支えられているはずで、それを可能にしている彼の経済的自立やその著名さは特権的と現状では言うしかなく、他の障害者は彼に対してむしろ厳しい眼差しになるのかも知れない。
今回の件では、思いやり、という言葉の持つ、特に他者にそれを強制する場合の暴力性を感じた。少し話は違うかもしれないが、先日、夫の実家に行った時、夫と義父が晩酌をする際に、酌をしろと言われて不快に感じる女性の話を読んだ。別に酌くらい、家族がちょっと楽しむためなら思いやりの範疇と男としてはちらりとは思わないでもなかったが、そこに強制さがあるのが不快なのだというのは理解できる。思いやりや気遣い、人間的な深みの名においてどれだけ私たちは他者を、特に立場を弱い人たちを抑圧しているものか、それでいて、マイノリティの側が声を上げれば、傲慢のそしりを免れない。まなじりを上げて、あれも不満だこれも不満だと不平を述べる女性が、個人的な不平不満として処理されて、柳のようににっこり笑って受け流す、それがしなやかで賢い女の生き方だと諭される世間において、実際にそういう生き方を強いられる「気遣いに満ちた女性」の心がどれだけ血みどろなのかは顧みられない。
急いで言うが、人と人との交際において思いやりや気遣いが決して必要ではないという意味ではない。ただしある属性に、特にマジョリティ側がマイノリティ側のみに一方的に思いやりが要求される時、それは実際には尊重された個人間での思いやりではなくて、多数が少数を受容しやすいように加工を要求する暴力だろう。
先進各国で同性愛者の結婚の合法化が次々に進んでいるが、日本ではそういう声も上がる段階ではまだまだない。今回の件で、欧米では、というような話にはしたくはないのだが、おそらくこういう話で乙武さんの側が一方的に叩かれると言うのも、英語圏での諸々の意見を読んでいる限りでは、日本ならではという感じもする。たぶん、同性愛者の結婚合法化の話が日本では微塵も出てこないのも、女性の社会進出が遅れているのも、乙武さんが叩かれているのも根っこは同じと感じている。
単純に額面通りの思いやりと言うか、注意深さで言えば、もちろん、乙武さん側が予約の際に彼の身体的な事情について説明していても良かった。そうすればいろんなことは確かにずいぶん違っていただろう。それを手落ちというなら手落ちだろうが、最低でも同じ程度の手落ちは店側にも発生していたはずだ。
これが一方的に乙武さんの側の手落ちとして処理されるのは、彼のような障害者が普通は外食には来ないという常識のせいである。イレギュラーケースだと認識しているから、特殊な処理を要求されるなら事前にご連絡を、という話になるのであって、それは確かに今現在の結果的な「常識」かも知れない。そういう常識があるから、多少の融通をつければ対応できるような場合でも出来ないと言い張ったり、不躾な態度をとっても俺は悪くない、と思うのかも知れない。なぜならば相手が常識はずれなんだから。
そもそもの両者の言い争いの中でも「常識」が争点になったように、これがまさしく日本社会の障害者対応をめぐる常識、コンセンサスの問題であり、その常識の規範をわずかでも譲りたくないから障害者の側のクレームをあたかも特権階級として扱えと言われたかのように反応するのだろう。
この、障害者が行動するうえで、特にもろもろ障害者の側が配慮しろ、小さくなっていろという常識をはねのけている、あるいは今まで結果的に例外的と言う意味で特権的だったがゆえにその常識を我が身の問題としては強く感じてはいなかったかも知れない乙武さんは、障害者の姿が通りにあるのは当たり前という法によって支持された常識を持っていたから、世間の常識と対立したのである。
ともかく、乙武さんの身体的状況が伝えられていなかったために、トラブルが発生した。それを思いやり、気遣いの問題として処理するならば、双方ともに落ち度がある。本来は次からお互いに気を付けましょうねで済む話だ。
そうはならなかったのは、常識の対立になったからである。
障害者が出歩くのが当たり前なのか、特殊な状況なのかという常識の対立である。出るところに出れば、理屈から言えば前者の方が常識だと言うしかないのだから、一億人のうち9999万人が後者を支持しても非常識は非常識である。いずれにせよ、日本社会もまた先進国の一つとして、ベクトルとしては障害者の社会参加を促す方向に向かっている。今現在、障害者関連法について努力目標のような緩い規制しかないのだとしても(これもしばしば現在の「社会常識」の理念への介入を許す日本ならではの現象であるが)、橋頭堡的に点在する「合法性」は単にスカラーの伸びの違いの前に残された沈みゆく島に過ぎない。
今回の件は、むしろはっきりと罰則を伴う、より厳格化された障害者関連法の必要性を明らかにしてみせた、というしかない。それこそ、思いやりを本当に双方が発揮していれば必要はない規制であって、より柔軟な対応が本当は出来るのに、そういうガチガチな関係でしかお互いを縛れないのだとしたら、それは少なくとも乙武さんのせいではない。
今回、乙武さんが「晒した」行為について、普通は彼もやらないことだろうし、よっぽどのことだったのだろうし、話を聞く限りはよっぽどのことだったというしかない。これが果たして名誉棄損に相当するのか、私はそうは思わない。報道、批評、事実の指摘としても処理は出来るからだ。ただ、これを問題視する人たちが、乙武さんについては人格的な部分にまで踏み込んで、論評(これはかなり穏やかな言い方だが)しているのは当人の論理的一貫性としてはどう処理をしているのかは気にかかるところである。