息苦しい社会を生み出すのは「余裕のある人たち」

モンスタークレーマー的な話があると、はてなブックマークに限らず、ネット世論ではクレーマー批判が大勢になるけれども、これだけ「労働側に優しい視線を持つ人が大半」の国で、ブラック企業が現にまかりとおっているというのも不思議な話である。ブラック企業と言えば、ユニクロすき屋あたりが名を挙げられやすいが、理屈から言えば、残業を強いているような企業はブラックなのであって、「ノー残業デー」なんてものを設けている時点でブラックであり(残業はしないさせないのが基本だから)、それで言えば、「労働側に優しい視線を持つ人が大半」であるこの国で、ほとんどすべての企業、企業どころか官公庁はなおのことブラックである。
私はこれを、労働側にシンパシーを持つ人が多いにもかかわらず現状ブラック、と見るのではなくて、そういう人たちのメンタリティ自体が、ブラックな環境を引き起こしていると考えている。
それは彼らの多くが結局、他人を尊重する、テリトリーを尊重するということがどういうことなのか理解できていないからである。
確か何年か前に、どこで読んだのか忘れたが、モンスタークレーマーとして叩かれていた事例で、次のような話があった。
・筆者は毎日特定のコンビニで特定の銘柄のタバコを購入している。
・そこで働いている中年女性の店員は、客に向かって「うん?」と言うような馴れ馴れしい言葉遣いをする。
・筆者は銘柄を商品名で指定して、購入しているが、その女性店員は場所を覚えておらずいつももたもたしている。
・ある時、筆者はその店員の口のきき方と、いつまでたってもタバコの場所を覚えていないことを店員に注意した。
だいたいそういう話であったかと思う。
現実的な話としては、その程度のことでいちいち腹を立てるのもどうなのかと私も思わないではなかったが、理屈を指折り数えていけば、私は筆者の方に理がある話だと思った。つまりこれはテリトリーを侵害されたことに対するクレームの話なのである。
この筆者を叩く意見に対しては理屈から言えばまったく理解できなかったと言っていい。それらの代表的な意見に対して、テリトリーの侵害という観点から言えば、どう考えられるのか、を述べてみよう。
[言葉づかいについて]
・親しみを込めてぞんざいに話すことは下町の定食屋などでもあるのに、いちいちそんなことで怒るのはおかしい。
まず第一にそこは下町の定食屋ではなくコンビニチェーン店であるのだが、下町の定食屋であったとしても、ぞんざいな言葉づかいは他人に敬意を表しているとは言い難い。別にそれが好きだと言う人がいてもいいが、嫌いだと言う人がいる人ももちろん考慮されるべきだろう。じゃあたとえば、その下町の定食屋に仮に天皇陛下がお忍びで来店したとして、店主が言葉づかいを改めないかと言えば多くの場合はそうではないだろう。つまり「親しみ」は実際には客への「値踏み」や「手抜き」であるに過ぎない。これは客を神として扱えと言う話ではない。他人である個人に対して、最低限度のマナーを示すべきという話である。人に犬猫を呼ぶような言葉づかいをして、それがまかり通らなければ「じゃあなにか?客は神さまってのか?どれだけ思い上がってるんだ?」といきり立つのはおかしい。人に対しては神でもなければ犬猫でもなく、互いに敬意を示すべき人としてと扱えという話だからである。日本語には敬語があり、尊敬語を用いないまでも丁寧な言い方をするのが普通であり、ごく親しい間柄ならともかく、見ず知らずの他人に対して丁寧な言い方も出来ないのは、それを不快に感じる人ではなく、丁寧に物事を言えない人の方がおかしいのだ。共同体の人として常識と思いやりにかけている。同様に、客だからと言って、店員にぞんざいな口をきいていいというはずがない。こうした考えを「余裕がない」と評す人は、実際には客側が店員に対してぞんざいな口をきくことも許容しているのである。なぜならば、理屈は別にして、下町の定食屋の店主が客にぞんざいな口をきくことが現実のコードとして許容されているのと同様に、客側が丁寧語も用いずに犬猫に話すように店員の話すこともコードとして許容されているからである。
[銘柄ではなく棚番の番号で指定すればいいということについて]
・タバコの銘柄名は複雑で、コンビニに置いてあるだけでも100以上ある。混乱を避けるために棚番で指定すればいい。
実際的な方法としては私もそう思うし、私自身喫煙者なので、コンビニでタバコを買う時にはそうしている。ただ、ここにもテリトリーの侵害があり、テリトリーを侵害すること、されることに対して日本人の多くが鈍感であるという問題がある。歴史的なことを言えば、コンビニがタバコを扱うようになった時、棚が先にできて番号が振られるようになったのは後であった。本来は銘柄を指定して購入すべきものだが、客側が商品名を略したり、店員が覚えきれていなかったりして、無用の混乱が生じたので、確認用に番号が振られるようになったものと推測している。私自身、それまでタバコは棚番を指定しろとの注意書きを見たことはなく、その記事を読んだ後に、目につくコンビニで確認したのだが、そういう注意書きが書いてあるコンビニは一軒もなかった。番号を指定するのがデフォルトな注文方法であるならば、最低限それを掲示すべきだと私は思ったが、実際にはそのような例は一例もなかった。私は別に番号を指定して注文すること自体になにがしらの問題があるとは思わない。カタログ販売等であれば番号指定は当たり前だからである。ただ、店頭でのタバコの販売は過去においては少なくともそうではなかった。銘柄指定での販売がデフォルトであったのである。棚番での指定をデフォルトにした場合、客側に棚を確認して番号を確認すると言う手間がかかることになる。大した負担ではなくても負担は負担である。これまでの店頭販売のやり方から言えば、店員の負荷を減らし、混乱を減らすというコスト削減のために、負担を店舗側から客側に移転させたことになる。つまりそこで従来の慣行を基準にした場合、店側による客側へのテリトリーの侵害が発生しているのである。店側になにがしらのうしろめたさが生じるのは当然で、おそらくそれがあればこそ、はっきりと番号指定での注文を求めるにはいたっていない。求めるにはいたっていなければ、銘柄で指定するのは客側の選択の自由であって、基本的には店員はそれに対応する義務がある。この場合は、何か月もたって銘柄を指定されてまごつくというのは、店員の落ち度であって、客側の時間的な損失である。それに対して、クレームをつけるのは当然の反応であるというしかない。
うちの近所に、歩道と車道がガードレールなどで仕切られていない道があり、その並びの家にキンモクセイが大きく道側にせりだしている家がある。それを避けるためには車道に出なければならず、危ないと言えば危ないのだが、車の通りが頻繁ではないこと、キンモクセイの季節には楽しませていただいていることもあって、私は別に何もしていない。何もしていないからと言って、道にせり出して危ないから伐採しろと要求する人がいるとして、それはそれでもっともな主張だと思うし、別に「余裕がない人」とは思わない。その家が公共の道に対してテリトリーを侵害しているのは確かなのだから。


テリトリーの侵害に鈍感であると言うことは、自分が他人に対する侵害についても鈍感であるということである。上記の例で言えばテリトリーの侵害に対する反応に対して、人格の問題にしている人は、残業に対して非協力的であったりする人に対しても人格の問題として処理しているのではないかと思う。
自分が侵害する時に、相手に「余裕」や「配慮」を求めるだけではなく、自分が許容できるからといって、テリトリーの侵害に対して許容できない人がいることを許容できないことが息苦しさを生む、根本的な理由であると私は思う。
通りに「少し」はみだしていても、キンモクセイの香はそこを歩く人たちを楽しませるかも知れない。自分がそれを楽しんでいる時に、やかましく法律論を言って木を伐採させれば、なんと残念な、なんと余裕のない態度と思うかも知れない。しかしそういう人は、たとえば盲人の人が歩く時に、いきなり障害物があらわれることの危険を考慮していない。盲人に対して配慮をしていない。この場合の配慮のなさは、単なる思いやりの話ではなく法律的な裏付けがあるにもかかわらず、法律によって保護されることを諦めろと言っているに等しいのである。
世の中にはいろんなひとがいて、いろんな利害を持っている人やいろんなこだわりを持っている人がいる。いろんな人がいるのがこの社会のデフォルトな姿なのであって、だからこそテリトリーの侵害に対して注意深くあることは、いろんな人を尊重することに直結するのである。
常識や、好み、人格論などで、テリトリーをたやすく侵害する人が多いから、日本は息苦しいのである。人に「(自分のおもうところの)寛容」を求めている人が日本を息苦しくさせているのである。