平田オリザ氏ら、小劇場系演劇人の発想の何が問題なのか

最初に言っておけば、私はそもそも演劇、特に産業として自立しているとは言えない小劇場系の演劇を表現芸術としてはさほど評価していないし、興味も無い。舞台演劇の定義を言えば、

①劇場もしくはそれに準じる興行空間において、演じられる。

②観客は着席する、もしくは自由には移動できない範囲内で立哨する。

③固定された前面空間を観客は鑑賞する。

と言うようなものになるだろう。よく言えば原初的な芸術であり、悪く言えば原始的な芸術である。

演劇人が、演劇の性質として、ライヴ性の必要性を上げていたが、別に撮影したものを映画として上映すればいいので、技術的にはそれは不可欠な要素ではない。

ただし、もしそうするならば、普通は映画の技法(ズームアップや音楽の適時挿入、字幕の挿入)などを採り入れるだろう。そうなった場合、それはもはや映画である。

つまり舞台演劇と言うものは、その原始的な表現方法によって「出来ない」と言うことを性質としているのであって、一般的に言えば「出来ない」と言うことはクリエイティヴィティの制約である。

21世紀の選択肢の多様性から言えば、資本やテクニックの不足から、演劇しか出来ない人たちがやっていることに過ぎず、そもそも演劇自体を私は評価していない。表現者として真摯で誠実であるならば、他の表現手段を取るはずだからだ。

ただし、それは私個人の評価であり、私個人とは関係のない場所で行われている限り、何の異存もない。

しかしながら、税金を投入するとなれば、それは「社会的意義」の話になる。

諸々の要素がこんがらがっているように見えるが、演劇事業への補償、補助金投入は、徹頭徹尾、「そこに公共の福祉はあるのかどうなのか」と言うことに尽きる問題である。

平田オリザ氏らがタスク設定としてそもそも間違えているのは、彼らがなさなければならないのは、財布の紐を究極的には握っている納税者に対して、その温情や同情、公共性の価値を認めてもらわなければならない立場である、と言う認識が欠けている点だ。

 

価値と言うものは市場価値である。カネで価値を計れるかと言う言い方はそもそもがおかしいのであって、貨幣が価値評価手段であることから言えば、産業の公共性は、規模、収益、労働者数などの経済価値によってのみ規定され得る。

それで言うならば大資本からなる商業演劇はともかく、小劇場系の演劇は、産業として平時から自立していないのであって、実質的な労働者(役者)に最低賃金すら保証できず、個人事業者扱いすると言う方の抜け穴めいた反社会性によりかかるしかない時点で、そこには需要はなく、需要が無いと言うことは、公共性に欠けているということである。

その公共性に欠けた産業に対して補償する必要があるのか、と言う納税者的な視点から、平田オリザ氏らの要請に対して批判の目が向けられているのであり、鴻上氏の「しょせんは好きな仕事をしていることに対する嫉妬でしょ」と言うのは、ずれたリアクションでしかない。

そもそもその批判が嫉妬によるものかどうかは証明不可能なものであるし、嫉妬から批判したとしてもロジックが通っているならば何の問題もないからである。

鴻上氏の態度も、「納税者に対して、意義を説明し、助力を請わなければならないおのれの立場」を自己認識しているとは思えない。その立場の不認識が「上から目線」だと言われているのだ。

税金と言うものは、好きなことではない仕事をしている人からも、時給800円で生計を立てている人からも、徴収すると言うことであり、その重さ、そしてその支援を受けるうことの有難さをまったく認識していない。これを傲慢と言うのでなければ、何を傲慢と言うのだろうか。

 

以前、私は「盗人だから猛々しい」と言う記事を書き、税金に寄りかかる人たちを盗人扱いするとは何事か、とプチ炎上した。

私が言っているのは、まさしく今回の演劇人の言動のようなことである。

盗人ではない、つまり本来的な自然な価値があるのであれば(市場価値、と言ってもいい)、そこへ公金であっても投入するのは費用対効果上合理的なのだから、その受益者もそもそも声高に声を張り上げる必要は無い。価値の実態があるから、その市場価値のロジックを説明すればいいだけである。

そもそも大衆も、そこまで愚かではないから、合理的に説明されれば、ああ、そうなのか、と納得するだけの話である。

声高に、髪を振り乱して、理解を示さない者たちを罵倒する必要があるのは、その市場価値の実態を持っていない者たちである。価値の実態が無いにも関わらず、公金なり利益誘導なりを望むのであるから、イデオロギーによる装飾が必要になるのだ。

今回の場合は「文化国家としての日本の貧困さ」であろう。

助力を請う立場でありながら、その助力を請う相手に対して、演劇人がなぜかくもみな、威猛々しいのかと言えば、穏やかに説得する材料がないからである。価値が無いからこそ、上から目線にならざるを得ず、モノガタリからの糾弾が必要になるのだ。

 

私としてはそんな茶番にとうてい付き合いたくない気持ちである。