子育てと寛容と

再生JALの心意気/さかもと未明(漫画家)
何の疑いもなく、自分は正しいとばかりに上記のような記事を公表する筆者、また、それを掲載する媒体にも驚いたのだが、いろいろと考えるところはあった。
僕は可能な限り出来れば地べたを這って行きたい人間で、飛行機はなるべく避けている。それは体質的な問題があるからだ。飛行機はなるべく避けていると言っても、それでも乗らないわけにはいかないのが現代人の生活であって、乗るたびに耳内が激しく痛くなる。耳内の空気の通り道が細い人はそうなりやすく、唾を飲むとか、飴をなめるとかではどうにもならない。激しい頭痛に襲われたような、拷問のような痛みが下手したらフライト中続く(地上に降りてからも半日くらいはふらふらしている)。
耳が痛くなりやすい人用の耳栓をつけるようになってからは、まったく痛みがなくなったわけではないが、症状はかなり緩和された。それでも飛行機には乗りたくないし、海外には滅多に行かないのもそのせいだ。
赤ちゃんは、耳内の気道が細いので、「飛行機に乗ったら耳が激しく痛くなる人」である。大人でも耐えがたいのに、赤ちゃんがその痛みにさらされて泣き叫ぶのは当たり前である。もし可能なら、小さな子や赤ちゃんは飛行機には乗せない方がいい、それが当人たちのためだと思う。でも、飛行機に乗るのが大嫌いな僕でも往復で1フライトと換算しても年間二桁は乗らざるを得ないように、小さな子供を抱えていても飛行機に乗せざるを得ない状況が親にはあるのだろうと思う。避けられるなら避けているはずだから、飛行機に小さな子供を乗せざるを得ない親を責めるのはよしてほしいと思う。
ただ、子供が泣くのはしょうがないと言う前に、なぜ泣いているのかをまず考えるべきだろう。すべての行為に原因があるとは限らないが、飛行機で泣き通しの場合、耳の痛みが原因じゃないかと思う。あやしたり、眠らせたりというのは対処療法であって、痛みを取り除く、緩和するというのが第一じゃないだろうか。
赤ちゃん用の痛み緩和用の耳栓もあるようなので、使っていないならそれを使用してみるのもいいのではないだろうか。


さかもと未明さんの件については、赤ん坊が泣きわめくのは想定の範囲内なのだから、(基本的には)彼女の方で自衛すべきだと思う。というか、備え付けのヘッドフォンをつけて音楽を聴くとかで、対処できなかったんだろうか。不思議だ。
僕も隣の席に赤ん坊を抱えた女性が乗ったことがあって、離陸前にその女性が恐縮そうに、お騒がせするかもしれませんが、すいません、と言われた。
「いえ、体質的な理由で耳栓していますから。正直、隣で大声を上げられてもまったく聞こえません。どうぞお気になさらずに」
と言ったら、深く安堵された風であった。ちょうど満席の時で、僕は通路側であったのだが、通路側のお席の方がよろしくないですか、よければ代わりましょうか、と言ったら、ありがとうございます、ぜひお願いしますとおっしゃったので、客室乗務員の許諾を得て、席を交換した。
彼女たちも、それが可能なら赤ん坊を抱えて、飛行機になんて乗りたくないのだ。そういう人たちをも受け入れてこその公共であり、公共輸送機関である。
僕自身については、耳栓をしていれば実害はないので、気にはならないのだが、マナーとしてどこまでを要求されるかについては人それぞれの考えがあってもいいとは思う。
泣き叫んでいるのが大人ならば、これはもちろん当人の責任であり、マナー違反であり、航空会社は拒絶するべきだ。しかし赤ん坊が、善処を尽くしても、最後のところでは大人の思惑通りにはいかないのは常識であって、それを迷惑というならば、つまるところ、公共輸送機関から子供を排除するしかない。そしてそんなことは許されない。
ただ、善処、という範囲内にどこまでを含めるかが議論の分かれるところだろう。僕は、気圧の変化に伴う耳の痛みを緩和する耳栓を赤ん坊や子供につけさせるのは義務づけるべきだと思う。マナーが云々以前に、子供たちが可哀そうだ。
アメリカでは眠剤を服用させたり、少なくともフライト前には赤ん坊を寝かせない対処方法が一般的なのは、アメリカでもそうそう赤ん坊に寛容な人ばかりではないからだ。リバタリアン的な、「自分の領分を侵されるのを嫌う」文化があるアメリカであればこそ、はっきりとクレームをつける人もいるし、露骨に嫌な顔をする人もいる。さかもと未明氏は極端だが、同じ考えの人は世界中どこにでもいる。


僕がこの件で考えたのは性犯罪者に対する薬物投与の問題である。
赤ん坊が泣くのは当人の責任でもなく、親の責任が全面的にあるわけでもない。そういう風な生き物なのだから。そして僕たちの公共はそういう生き物も内包している。
性犯罪者についても遺伝的な要素が大きいのであれば、その責任性については、僕はそれは赤ん坊が泣きわめくのと同じことだと思う。少なくとも程度としては。
赤ん坊を公共の中でうまく受容するために、睡眠剤のようなものを用いることに抵抗する人が、果たして性犯罪者の再発防止のために行われる「薬物治療」に反対しているのだろうか。
眠剤のリスクを言うならば、より重度の薬物治療である性犯罪者に対する継続的な薬物投与について、健康被害を考慮はしないのだろうか。
赤ん坊は誰もが来た道であり、未来の礎である。だから性犯罪者とは違う、という考えもあるだろうが、実際、さかもと未明氏への反応として見られたそうした見解こそが僕は恐ろしいと感じる。
単に数が多いから、役に立つから、肯定するというのは、数が少ない人たち、役には立たない人たちを弾圧しても構わないという考えと表裏一体である。
そういう考えに対するおぞましさ、のようなものを僕はこの件の反応から第一に感じた。