コロナの春を生きる

私は働いている。

私のように、子供のいない世帯に属している者であれば(介護もしていない)、企業にとっては調整弁になることが多く、「お互い様」「助け合い」「ギヴアンドテイク」の名の下で、「一般的なまっとうな社会人」のフォローに回らされることが多い。こちらが「お互い様で助けられる場面」は皆無なのであるが。

リモートワークを実施するにしても、年齢も年齢であるし、組織の中でもある程度、階位が高くなって判断が必要な場面にいなければならないこともあり、何人か私のような者が出社する必要もある。

そういうのに私はすべて「いいよいいよ」で受け入れてきた。今回もそうである。元々、鈍感な方ではあるし、いつ死んでも構わないと言う達観した思いもある。コロナへの恐怖は無い。

それで死ぬならばそれで死ぬだけの話だ。既に、漱石よりも織田信長よりも年長になってしまった。無理に死ぬつもりはないが、過剰に生にしがみつくべき年齢でもない。

そうなのだ。

私にとってコロナは境地の問題に過ぎない。

そして境地の問題としては私はたいして痛手を負っていない。

精神的にはかなりタフな方ではあるのだから。

それは私が今の時点では、雇用の心配がなく、失業者になるおそれもなく、持ち家も、それなりの金額の貯金も、ある程度の資産もあるからだ。

万が一、ここで失職しても、住むところがなくなることはないし、年金が出るまで、働かずに暮らすことも可能だ。生活の心配が無いと言うことは、9割以上の心配がないということでもある。

私は考えてみればさして「幸せになりたい」とは思って来なかった。「不幸から遠ざかりたい」とは思ってきた。私にとって幸せとは、不幸ではない、と言う意味でしかなく、9割以上はカネで補填がきくことであった。

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鴻上尚史氏の人生相談を読む。

鴻上氏も芸歴が長い。80年代の頃は、私は氏は嫌いだった。「バブル期の調子のいい文化人」そのものであり、態度も発言も軽薄だったからだ。

彼を嫌いになった決定的な契機があったのを記憶しているが、それがどういう内容だったかまでは覚えていない。

氏を批判するのにアナロジーでするのはさすがに失礼ではあるが、ニュアンスで言うのであれば、根暗な人に「ネアカになれよー!」とがんがん押してくるような無神経なキャラクター、彼の実際の性格はともかく、少なくともそういうキャラクターで売っていた時期があったのは確かだ。

今の「酸いも甘いも理解した人生相談の達人」の氏などはかつてからは想像もつかない姿である。かつての彼は決して相談者に寄り添うような人では無かったのだから。

人はそれだけ奥深いとも言うし、氏も氏なりに人生を重ねたからなのかも知れない。

コロナで生活が脅かされている人に対しては「お気の毒です」としか言いようがない。人間の想像力には限りがある。どれだけ備えていても、まさかこのような要因で生活が破壊されることになろうとは想像も出来なかっただろうし、備えるにも限度がある。

私も、平田オリザ氏や鴻上尚史氏が、「てめーは稼いでいるからいいだろ」と揶揄するほど稼いでいるとも思っていない。小劇場系劇団は搾取構造によって成り立っているのだが、搾取する側である劇場主や劇団主催者もまた、産業としての脆弱さの中にいるのは変わりはないので、搾取するにしてもたかが知れている。入ってくるおかねよりも出ていくお金の方が多いだろう。

そもそもまともな投資対象としては、小劇場系の演劇は入らないので、彼らに対する批判のうち「おまえらは稼いでいるだろう」と言う一点について言えば、不当だと思う。

鴻上尚史氏も、著述家としてのみ活動するのであれば資産を築けるだろうに、敢えてリスキーな演劇を行っているのだから、その文化的な奉仕精神は本物だ。

それでも。

きちんと雇用を創出し、社会保険や厚生年金を支払ってきた飲食産業と、おそらくはほとんどの劇団員が劇団員としては無年金な衝撃男系演劇を同列に置くのは間違っていると思う。