王家問題

来年のNHK大河ドラマ平清盛」のウェブサイトの人物相関図で、皇族を指して「王家」と記載されていたことについて、右翼の西村某氏が「不遜だ」と批判している。それに対して、「日本史も知らない右翼なんて、バカじゃないのw」という反応が見られるが、私はこれについては西村氏の言うことも一理あると思っている。
王家という呼称が言うほど一般的とはちょっと思えない。王氏、王法、王権、等々の用法はあるが、王家はそれほどないのではないだろうか。いずれにせよ厳密に定義づけられた語ではなく、「日本国皇室」という限定されたイエというよりは、機能的な意味に焦点をあてる時、王という語が用いられることが多いように思うが、それにしても王家という用例がそれほど多いのだろうか。そうは思えないが。
親王のイエが親王家なら、王家は王のイエである。以仁王などの家中が王家なのであって、果たしてそれを皇族全体に敷衍することが出来るのかどうか。
源氏物語の研究では「王氏の他氏に対する優越」があるとよく言われることだが、この場合の王氏は狭義の皇族ではなくて、源氏も含まれている。「王」と言う語がかなり曖昧で範囲が広い用いられ方をしている例である。仮にこれに基づいて王氏=王家とみなしたならば、源氏も平氏も王氏に属することになり、人物相関図がナンセンスになってしまう。
西村氏を批判している意見の中には、院政期に治天と皇位が分離することが多かったから「王家」でも不思議ではないとする意見もあったが、これはどういう意味なのだろうか。
治天ではないという意味で帝が王家なのか。だとしたら院は王家ではないということになるが、人物相関図に院は含まれている。そうではなく、クランの長が院であり、院が帝ではない以上、「皇族」とそのクランを言えないという主張であればそれはそれで不思議な主張である。治天が天皇経験者でない例が見られるのは平氏政権以後のことであり、それにしても皇族の一員であるには違いなかったのだから、そのクランを皇族と称して何の差し支えがあるのだろうか。
クランの名前としてではなく、機能的な意味で君侯一族という意味で王家を用いることは不可能ではないが、そもそもこれが人物相関図の話であり、源氏や平氏がクランとして提示されているのと対比すれば、「王家」とは機能的なニュアンスではなくクラン名として用いられていることは明白である。
クラン名として王家を提示するのは、名称的に言えば王は皇族の中の一身分に過ぎないことを踏まえれば控え目に言っても不適切である。私にはそうは思えないが、仮に当時の用法として、皇族の意味で王家という呼称を用いるのだとしても、そこで当時の呼称にこだわる理由がわからない(そもそもそんな用法自体なかったと思うのだが)。仮にそれを肯定するとしても、ならばテロップで「後白河天皇」だとか「高倉天皇」なんてのは用いないつもりだろうか。敢えて相手の言い分に乗っかってみてもそこから見えるのは論理的整合性の破綻であって、要は「よく考えもしないで王家という語を用いた」という制作者の適当さだけが浮かび上がることになる。
私は単に「よく考えもしなかった」と解釈するのだが、西村氏はそこに陰謀的な意図を解釈しているようだ。
その陰謀論的体質を笑う前に、テキストとして論理的整合性の破綻があるのだから、まずそれが批判されなければならないと思う。ある事象をどう解釈するかは人それぞれであって、西村氏の主張が間違っているとは断定は出来ない。なぜならば、ここまでで述べたように、王家という用語の不適切さはコンテキストに照らし合わせて存在しているからであり、そもそもそこに落ち度があるのだから、仮にその程度の落ち度をするはずがないと見積もれば悪意の介在を疑うのは妥当な話であるからである。
つまり、西村氏はNHKの用語の処理能力を高く見積もっているのであり、私はそれを低く見積もっているだけの違いである。
だいたい、現在の大河ドラマのような幼稚極まりない紙芝居を作っているNHKがどの口をあけて「学術研究に基づく」などと言えるのかあきれ果てるしかない。
クランの名前として現在一般に定着している皇族という語ではなく、太平洋の中の孤島のように突出して「学術研究」を錦の御旗で用いるならば(それすらできていないのは指摘した通り)、もっと他にやるべきことはたくさんあるだろう。本能寺を爆発させたり、10歳児に伊賀越えをさせたりすることについてもぜひ、「学術研究」を参照にしていただきたいものだ。