ネット右翼ってなんなんだろう? 大きな物語ってなんなんだろう?

SMAPの中では、僕は吾郎ちゃんが一番好きで、と言うか、俳優としては一番上手い人だろうと思っているのだが、最近、NHKの番組で、稲垣吾郎が、ナショナリズムに関する読書討論会を仕切っていて、その言説に右翼の百田尚樹が噛みついたと言うことがあった。

まあ、僕もその番組は見ていないんだけど。

ただ「ネット右翼の人たちは」とか「大きな物語に寄りかかっている」とか、何の定義説明や比較検討もなく、言われると、関係のない僕でも「?」となる。

結果的に百田らのクラスターを批判的に揶揄しているのであろうから、百田がそこんとこきちんとしてよね、と言うのはむしろ当然なのではないだろうか?

僕のこの考え、間違っている?

アンダーソンが指摘したように、ナショナリズムにはむしろ左派との結合関係が歴史的には顕著で、排外主義的な側面に限ったとしても、アメリカでも日系人移民を排斥したのは民主党政権下だったよね、と言うようなことも思い浮かべる。

なんかこうふわっとした仲間内のロジックは、その仲間でないとまったく理解できない。「ネット右翼の人たちは」「大きな物語によりかかっている」としても、だからと言ってそれが何がどう悪いのかさっぱりわからないが、そもそもそれは「ネット右翼の人たち」のみに見られる話なのだろうか。

そして「ネット右翼の人たち」とは誰なんだろうか。

そういうふわふわとしたロジックで満足しているのは、右であれ左であれ実にマスターベーション的であり、むしろ知的退行なのではないだろうか。

そんなことをこの国はもう20年以上続けているよな、と思うのだった。

声優にとってのギフト

こちらの記事。

toyokeizai.net

大塚さんのご意見にあんまり納得できない。と言うか、読者の大半の解釈と、ここで言っている大塚さんの言っている「いい声に拘る」と言うことには違いがあるんじゃないかと感じる。

丹波哲郎は演技者としては「ずぼら」なことで知られていた。台詞を覚えてこない。と言うか覚えない。カンニングペーパーをかかげさせながら演技をする。

それでいて、出来上がったキャラクターは実に魅力的だった。どんな役をやらせても、画面が締まる役者だった。

丹波哲郎は演技論についてこう語っている。そもそも、キャスティングの時点で、キャラクターに合う人がキャスティングされているのだから、丹波哲郎のままでいることが、そのキャラクターの魅力を最大化させるのだ、と。

彼よりうまい役者や、精緻な演技論を語れる人はたくさんいただろうが、丹波哲郎ほど魅力的なキャラクターを作れた人はそうはいない。

大塚さんの言っているのは演技論である。

作品やキャラクターの魅力へのアプローチとしてはそれがすべてではない。

声優にしてもそもそも、声質が唯一無二で、それが合致するキャラクターと組み合わさった場合、この人以外は考えられない、と言う人たちがいる。上手い下手の話では無い。

大塚明夫さんもわりあい、声質に特徴がある声優さんだが、彼の持ち役のほとんどは、別に彼以外の人が演じても、そう遜色がないように感じる。ただ「ER~緊急救命室」のドクター・ベントン役は、役者のエリク・ラ・サルがわりあいかん高い声なのに対して、大塚さんは重低音の声なので、声質によって役に説得力が増している例だ。

これは演技のうまい下手とは別の話なのだが、要素としては確かに、声質が役に説得力を与える、と言うことは実際にある。

演技が下手だと言う意味ではなくて、演技力云々よりはその稀有の声質自体の方が、貴重な声優さんと言うのは確かにいる。

この、声質重視と言う点から言えば、世間的には演技力が高いとされている声優であっても「替えが利く」声優も多い。富山敬さんを始め、大ヴェテランですらそうだと私は思う。タイガーマスク富山敬であってももちろんいいのだが、絶対にそうでなければならない、と言う拘束性はそこにはない。古代進ヤン・ウェンリーも、他の声優がやってもそれなりの仕上がりにはなるだろう。富山さんほど上手いかどうかは別として。

一方で、例えば「キャンディキャンディ」でアンソニーの声を当てた時の井上和彦さんは、当時はまだ新人だったこともあってそう上手くはなかったのだが、まさしくアンソニーそのものの声だった。井上和彦さんがアンソニーを演じた以上、もう他の組み合わせは考えられない。

サイボーグ009」の009(島村ジョー)の声はいろんな声優さんがあてているのだが、やはりTVアニメ第二期の009が一番はまっているのは、井上和彦さんの演技力ゆえんではなくそのメローで哀愁に満ちた独特の声ゆえである。

これはもうギフテッドというしかなく、努力とかメソッドを越えたところにいる人たちである。

主にギャランティの問題で、ヴェテラン声優が使われにくい昨今、井上和彦さんに現役感があるのはこの「替えの利かない」声質があるからだろう。

この声質先行型の声優としては私が見る限りでは他に、池田昌子さん(「銀河鉄道999」のメーテル、「エースをねらえ!」のお蝶夫人)、藩恵子さん(「聖闘士星矢」のアテナ、「銀河英雄伝説」のアンネローゼ)、塩沢兼人さん(「機動戦士ガンダム」のマ・クベ、「銀河英雄伝説」のオーベルシュタイン)、堀川りょうさん(「銀河英雄伝説」のラインハルト、「聖闘士星矢」のアンドロメダ瞬)などがいる。

池田昌子さんなんかは特に、演技としても達者ではあるのだが、あの声がキャラクターにまるで宛描きをしているかのように圧倒的な説得力を与えている。

この意味で「声質は重要ではない」とは私はまったく思わなくて、若手で言えばこの抜きんでた声質を持っているのは、もう若手と言うのもあんまりだが、私が見る限りでは中村悠一さんと坂本真綾さんなのだが、そう言う「唯一無二」の声の人だけで声優業界が成り立って欲しいくらいである。

ただ、大塚さんが言っているのはこういう話では無いのだろうとも思う。

21世紀以後、キャラクターにあわせて「声を作る」声優さんが増えていて、それはそれですごい技量ではあるのだが、そんなヴォイスチェンジャーみたいなことをしてどうするんだと言う気もする。せっかくギフテッドであるのに、坂本真綾さんも声を作ることがあって、もったいないなと思う。

そう言うヴォイスチェンジャーみたいなことに力を入れるな、と言うことであるならばまったくその通りだと思うが、ただ、ギフテッドではない、声優技術のみがある声優さんにとっては、結果的にそれが生き残るすべになっているのも否定しがたい。だから頭ごなしに駄目だとは思わないが、声優にとって「七色の声」と言うのは決して誉め言葉ではないよ、とは思う。

 

鎌倉時代版アウトレイジ~悪い奴しかいない

来年の大河ドラマ渋沢栄一を扱う「青天を衝け」だが、再来年は三谷幸喜脚本で「鎌倉殿の13人」が放送されることが発表された。

平安時代末期から鎌倉時代初期、いわゆる源平争覇の時代は、これまで「源義経」「新・平家物語」「草燃える」「炎立つ(第三部)」「義経」「平清盛」と6作品、放送されている。幕末、戦国時代に並んで、取り上げられやすい時代だと言えるだろう。

 

脚本の三谷氏は大河ドラマフリークとしても知られていて「新選組!」「真田丸」に続く三本目の執筆になる。過去に大河で三作品を担当するのは、ジェームズ三木、橋田壽賀子以来だが、四作品を担当した中島丈博がいるので、氏には今後とも担当していただきたい。

三谷氏は自身が大河ドラマ好きなだけあって、大河ドラマファンのつぼを外さない、安心できる脚本をお書きになるのだが、私の好みとしてはコメディ色はもう少し薄めてもいいんじゃないかなとは感じる。

ただ、今回の北条義時を扱う大河も、おそらくは三谷氏主導で題材を選んだのではないかと思う。私も大好物である。ドンピシャと言うか、以前、三谷氏が「草燃える」をリスペクトして語っていたのを何かの雑誌で読んだか、TVで見るかした記憶があるので、私も今選ぶのであれば一番好きな大河ドラマは「草燃える」なので、同好の士が書く、北条義時、楽しみでしかない。

私は中島丈博の歴史ドラマを描く手腕を非常に買っていて、彼の書いた大河ドラマはどれも好きだ。中でも「草燃える」は、歴史ドラマの面白さが濃縮されたようなドラマだ。

これは何かで読んだ記憶では「コメディとして書く」と言う意図があったらしいのだが、実際、頼朝を演じた石坂浩二のひょうひょうとした演技や、武田鉄矢コメディリリーフぶりにもそれが現れている。ただ、あの時代の鎌倉政権と言うのは、日本史上もっとも暗黒面が出たどろどろの集団なので、もう、終わりになればなるほど、どろどろぐちゃぐちゃになってゆく。もう、本当、悪い奴しかいないのだ。

草燃える」は大河ドラマではたぶん初だと思うが二人主役体制になっていて、頼朝が生きている回では石坂浩二が主演で、北条政子役の岩下志麻が止め、頼朝死後は岩下志麻が主演になる。

ところで、岩下志麻は、大河ドラマでは日本史上三大「長男を忌み嫌い、次男を偏愛する母親」、すなわち北条政子、最上(伊達)の義姫、お江を演じているのだが、これも稀有なことではある。

頼朝死後は、北条政子が主役になる、はずなのだが、事実上、主役にのしあがってゆくのが松平健が演じた北条義時である。

三浦の陰謀にのっかって、実朝を排除したり、後鳥羽上皇をいいように躍らせたり、義時はヒール中のヒールなのだが、一方で武家政権を支える高い倫理性と預言者のような頭脳を持ち合わせたオーベルシュタインのような人物である。

この人を大河の題材に選ぶ、と言うのが、三谷幸喜、分かっているなあと言う感じがする。

善人俳優と言うか見るからに善人、善人を演じるしかないよねと言う役者がいる。加藤剛松平健もそうだし、石黒賢妻夫木聡らもそうだろう。ほら「白い巨塔」で里見先生をやらせたらはまりそうでしょう。そう言う役者が知的な悪役を演じると、逆にはまって凄みが出てくる。悪人ってのは善人面をしているものだから。

草燃える」の松平健は凄かった。北条義時の最大の政敵となる三浦義村(こいつも悪い奴)を演じたのが本郷猛もとい藤岡弘なのだが、暴れん坊将軍仮面ライダー、二大正義の味方が、陰謀の限りを尽くすのは迫力があった。

「鎌倉殿の13人」もぜひ、悪の限りを尽くしてほしい。

いつのまにかはてなブログ

はっきりとは記憶していないのだが、私がブログを始めたのは、2002年か2003年、当時はブログサービスとしては主流派だったココログで、standpoint1989の名前で書いた、主に国際政治関係の話を世界史から敷衍して事情を遡って書くブログだった。

ココログを選んだのは、選んだと言うか、私は当時、@nifty の利用者だったので、@nifty から「こんなんできました」と言うメールが来て、あれは当時は有料だったのだろうか? まあ、ともかく@nifty 会員は無料だったので、じゃあ、ちょっとやって見ましょうかと言うつもりで始めたのだった。

そのうち、ココログはあんまり絡みが少ないものだから、寂しくなって、はてなダイアリーはいいなあと思って、@nifty の方はわりあいきちんとした「記事」を書く場になっていたので、雑談めいた話をする場として、はてなダイアリーにブログ(? はてなダイアリーだからダイアリーなのか?)を開設したのだが、アカウントをとる際にちょっとした手違いがあった。

私はアカウント名は適当に、その時、眼についたものからとることが多くて、その時はたまたま「アーサー王伝説」の本が視界に入ったため、Mr_Rancelot と言うアカウントをとったのだが、すぐに、ランスロットはRじゃなくてLだったわ、と気づいて、どうしようかなと思ったんだけど、今はどうなのかは知らないが、当時はアカウントにつなげてサブアカウントを作ることが出来たので、そちらで lazarus_long というアカウントを作って、それではてなダイアリーを開設したのである。

お上品モードはココログの方でやっていたので、はてなダイアリーは意識的に狂犬モードでやっていたのだが、ekken さんあたりとバトルを繰りひろげたのはいい思い出である。ekken さん、元気かなあ。少年漫画のように殴り合って見れば、良い人だった。

ちなみに lazarus_long と言うのはハインラインの小説「愛に時間を」の主人公で、これも深い意味はなく、たまたま書棚にあるその本が眼についたから、それを用いたまでであったのだが小飼弾さんと、まあ例のごとく、喧嘩と炎上はネットの華ぜよ、と何かやりあった時に、「おまえさん、おまえさんがその名を名乗っていたら、おまえさんはいいかもしれねえがね、ハインラインの旦那にちょおっと迷惑をかけるんじゃないかい?」と言われて、それもそうだなと思ったので、スペル違いを承知で本IDのMr_Rancelot に戻したのである。

専業主婦関係で血みどろの抗争を繰りひろげた chazuke さんと言う人が、しきりにそのスペルミスをここぞとばかりに揶揄してきたのだが、他に言えることはないのかよ、と思ったのであった。chazuke さん、あちらはこちらを大嫌いだろうけど、私はそうでもないのであった。

で、ここでですね、実は Mr_Rancelot のブログが親バレしてしまって、いやー、ブログをやる時には、私はとにかく自分が思ってもいないことは書かない、世間的にはどうなのよ、と後ろ指さされるようなことでも自分がそう思っているのであればそう書く、ということだけは守ってやってきたので、親に読まれると困ることが多々あったのだよ。

考えは正反対と言っていいほど違うのであるし、私からすれば思考者としては親の考えはもうほとんど全否定すべきものであって、ただそれをリアルな人間関係に持ち込めば老人を無駄に傷つけるし、人間関係も破綻する。

それで焦って全消しを選択したのであった。

もう死んだからいいんだけどね、いまさら。

で、iteau のアカウントでこのブログを作ったのだけど。ブログというか、はてなダイアリーね。放っておいたらいつのまにかはてなブログになっているんだけど。

Mr_Rancelot の時は、あくまで予備のブログ(本陣はお上品なココログの方)と言う意識があったので、ブログ名も頻繁に変えて、最後の方は「検索できるならしてみやがれ」というつもりで green と言う、超シンプルな題にしていたのだけど、ここはもうあくまでブロガーとして余生を過ごそうと、商店街のふくびきで貰ったしゃぶしゃぶ4人前のような気持ちで、おだやかーに、過ごすつもりで、extra innings と名付けたのであった。「延長戦」だね。複数形なのがミソなのだよ。これは当時読んでいた、野球漫画の中では一番好きな「ラストイニング」をパクった。野球漫画であと好きなのは「おおきく振りかぶって」と、全然方向性が違うけど「最強!都立あおい坂高校野球部」だな。「ダイヤのA」はまだ続いているの?

それはまあいい。どうでもいいのだが、まあ、ざっと18年くらいはブロガーをやっているのだよね。実働半分だとしても、9年、ほぼ10年だよ。

累計で言えば毎日ではないけども隔日くらいでは書いていたわけで、それだけ書くと、正直、これだけいろんなことにモノ申したい私であっても、だいたい言い尽くしてしまうわけで。

もちろん人類社会の営みは日々続いてゆくのだから、それに何らかのリアクションをすると言う消化試合みたいなことは出来るのだけど、考え自体を書こうと思えば、自己模倣になってしまうのね。

私は考え方の癖自体は3歳の頃から変わっていないけど、ポリティカルなスタンス自体は結構かわってきた。ほとんど極左だった時もあれば、がちがちの保守だったこともあって、その後、ベースはリバタリアンになって、今は社会民主主義者の右派くらいで落ち着いている。ブロガーとしてはだいたい、社民的なスタンスで書いてきたと思う。

もういい大人だからね。と言うか初老だからね。年金貰うのに20年かからないからね。と言うか、年金受給年齢の方が多分年をとればとるほど遠ざかりそうだけどね。

もう、そこまでは根本の人格も思想も思考の癖も、変わらないのだよ。

そう言うこともあってもうここ7年くらいは、このブログも開店休業状態だったのだけど(だって、もう書きたいことはだいたい書いてしまったのだもの)、21世紀もいよいよ本格化してきた感じがある。リアクション芸メインだとしても、またそろそろ書きたいと言う感じが強まってきたので、これからは週1くらいで書こうかなと思う次第なのである。

 

ハリー王子の爵位、称号について

メーガン妃との結婚を機に、ハリー王子にウェセックス公位が叙爵されることになった。
王族に公爵位が与えられることを王族公爵と言うが、この公爵位そのものは、他の公爵位と違いはない。子々孫々に世襲されてゆく。
それならば、代々、英国の王子たちがこしらえた公爵位がさぞ多かろうと思われるかも知れないが、案外そうでもない。
第一に、婚外子には爵位の相続権がない。
第二に、女子、女系男子には爵位の相続権がない。
つまり、初代の嫡出子である男系男子でなければ相続権、継承権がないので、生まれた子が娘が二人、なんてことは普通にあるので、そう言う家は貴族家としては断絶する。エリザベス女王の次男のヨーク公には娘二人しかいないので、ヨーク公家は一代限りなのはほぼ確実である。
王族に与えられる公爵位として頻出するのは、クラレンス、ヨーク、ケント、グロスター、カンバーランド、ウェセックスあたりなのだが、これらは各王子に与えられた後、貴族家としては断絶した結果、繰り返し使用されているわけである。
ジョージ6世はジョージ5世の次男として、ヨーク公家を創設したわけだが、これは第7期のヨーク公家で、ジョージ6世として即位することによって、ヨーク公家は消滅した。そしてエリザベス2世女王の次男のアンドルー王子が第8期のヨーク公家を創設したわけである。


爵位保有者が王位に即位すれば王位に統合されて爵位は消滅する。これをマージという。
エリザベス2世女王の夫のエディンバラ公(第3期エディンバラ公)の嫡男はチャールズ皇太子であるから、この公爵位は将来的には王位に統合されて消滅する。エディンバラ公名跡を残したいと考えたエディンバラ公フィリップ王子は、末息子のエドワード王子が、フィリップ王子の没後にエディンバラ公に叙されるのを望んだ。
そのため、エドワード王子は将来的にエディンバラ公になる予定なので、現在は公爵位保有しない、ウェセックス伯爵なのである。その場合でも、エドワード王子は現在のエディンバラ公位を相続するわけではなく、一端、エディンバラ公位はマージされて消滅し、第4期のエディンバラ公として叙爵されることになる。


特殊な、例外的な相続、継承のされ方をする爵位もある。
ランカスター公爵位コーンウォール公爵位、ロスシー公爵位、ウェールズ大公位である。
これらは通常の爵位ではなく、君主・皇太子の地位に伴う付随称号であるので、通常の意味での継承はされない。


ハリー王子はサセックス公に叙される前は、ウェールズ大公の扶養家族扱いであった。
王族の範囲は、
・君主の子
・君主の息子の子
・皇太子の子
であるから、ハリー王子は王族なのだが、ハリー王子の子供たちは王族にはならない。ただし父のチャールズが即位すれば、王族になる。王族の範囲は、生まれた時点で絶対的に決まるものではなく、王位の位置によって、相対的に動く。
例えば、女王-チャールズ-ウィリアムの順で、順当に王位が継承されれば、ハリー王子の子は、「君主の息子の子」になるので、将来的には王族になるが、もし、女王よりも先にチャールズが逝去すれば、ハリー王子の子は王族ではなくなる。
それでいて、王族であるアンドルー王子やアン王女よりは王位継承順位は高くなるのだから、じゃっかんのややこしさが生じる。
今現時点で、厳密には王族の範囲の中にはいないのは、ウィリアム王子の子、ジョージ王子、シャーロット王女、ルイ王子らもそうなのだが、彼らに関しては、直系の王族であることから、女王が勅令で特別に王族とするとの命を発している。
ハリー王子は次男であり、傍系になるので、無理に王族扱いされるかどうかは分からないのだが、公務負担等を考えればハリー王子の子が王族でないというのは王家側にとって支障が出るだろう。
その場合は、王に即位しているはずのウィリアム王子によって、勅令が発せられることになるだろう。


エリザベス2世女王は矍鑠としていて、あとしばらくは在位しそうである。おそらく彼女が王位を去る前に、ハリー王子の子は生まれるだろうから、そうなった場合、仮にジョンという息子が生まれたとしたら、どう呼ばれるのかと言う問題が生じる。
ジョン王子とは呼ばれない。王子ではないのだから。その場合は通常の公爵家の嫡男として、ダンバートン卿と呼ばれるだろう。
ハリー王子は、サセックス公に叙されると同時にダンバートン伯爵に叙されている。ハリー王子に嫡男が生まれれば儀礼称号として、嫡男はダンバートン伯爵と呼ばれるだろう。

大国の限界

新たに大国が勃興する場合は、大抵の場合はその時点での地理的な辺境から勃興することが多い。国の成り立ちから連邦制の性格が強かったドイツにおいて、ウィーン、ベルリンという二大首都が、いずれも「辺境伯爵領」から発展していることは理由がないことではない。
基本的には新興国の興隆は、既得権益層、停滞諸国、いずれにとっても脅威であるわけで、出る杭は必ず打たれる。中小国から大国、大国から超大国への発展に際しては、必ず国際的な包囲網が敷かれることになる。
それを乗り越えるには、どうすれば良いのかと言えば、最大の方策は目立たないことである。地理的に辺境にあれば、既存の大国にとっては「主敵」になりにくく、第二位、第三位の敵にはなっても、第一位の敵にはなりにくい。また、既存の大国との間で、共通の第一位の敵を持つこと、つまり現状維持勢力として振る舞うことである。
先日、ウクライナを巡る記事において、はてなブックマークのコメントが概ねウクライナに対して厳しい姿勢であったのに対して、ある人が日本の保守がロシアに対しては割合、融和的な態度であることをプーチンに洗脳されている、みたいな決めつけを行っていたが、ロシアが基本的には信用のおけない隣人であったとしても、日本にとっては第一位の敵ではないし、ロシアにとっても日本は第一位の敵ではない。マキャベッリの言う、「リアリストの間では、互いにエゴイスティックであっても妥協、すなわち平和維持が可能」の実例であって、外交政策に興味のある保守派の多くが、戦術的にではなく戦略的に発想していることの現れであると思う。
ウクライナジョージアグルジア)は、まさしく私が国を示すのにジョージアグルジア)という厄介な書き方をしなければならないように、国際的にエントロピーを増大させる愚かな振る舞いしかしていない。アメリカや西欧諸国は愚か者と付き合うべきではないのである。介入さえしなければ単にそれらの国の無力さと言う妥当な評価基準から、最終的には親ロシア政権に収まるであろうし、そうなればロシアが介入する必要もなくなるわけだから、それらの地域ははるかに安定して発展してゆけるだろう。
新東欧圏におけるロシアの行為はエントロピーを減少させているという意味において、肯定されるべきであるし、この地域に介入の姿勢を見せている西欧諸国、特にドイツは相変わらずの外交戦略音痴ぶりを示している。ドイツは基本的には過去の失敗から学べない国である。そういう意味ではアメリカと似ている側面があるが、そもそもアメリカのそうした盲目的な要素は、アメリカ最大のエスニック集団であったドイツ系移民によってもたらされたのではないだろうか。
七年戦争は、辺境に位置する、大国の主敵にならないように振る舞う、この二点において慎重に振る舞っていた新興国が、ついには列強として脱皮を果たすために戦争と言う大危機を乗り越えた事例である。この戦争は二つの新興国アメリカとプロイセンの列強化をもたらした。それは結果論であって、その結果に至る前に両国とも存亡の瀬戸際まで追い込まれ、それを乗り越えなければならなかった。アメリカとドイツ(プロイセン)はこの点においてもそもそも相似的なのである。
プロイセンの危機の方がより苛烈であり、その凌ぎ方はより劇的であったのだが、その後、アメリカは順当に覇権国家に成長し、ドイツはその過程で二度の世界大戦に敗れるという失敗に陥ったのはなぜだろうか。
基本的にはやはり、アメリカの方がより地理的に辺境だったから、と考えるべきで、アメリカは早い段階で、欧州情勢への不介入、逆にアメリカ諸国に対する欧州諸国の介入排除の姿勢を見せた。モンロー主義である。これは孤立主義政策として、現在は特にリベラル派からは評判が悪い政策なのだが、「戦略的利害を明確化して、それを妥協可能な水準にとどめておくことによって、エントロピーを減少させる」という意味において、おそらくはアメリカが採った唯一の理性的で合理的な外交方針であった。
アメリカ大陸でのことは、欧州列強にとっては権益には関わっても生存には関わってこない問題であって、妥協が可能なマターに過ぎない。ドイツが位置するヨーロッパ大陸中央でのことは生存に関わるマターになる。この差が、アメリカに覇権国へと至る猶予を与え、ドイツには与えなかった根本的な理由であると思う。
そもそも能力が無ければ大国化には至らないが、そうした一般的な能力を除外して言えば、アメリカが覇権国家に至ったのは基本的には運、だった。同じアメリカ大陸でもどうしてアメリカ合衆国覇権国家化して中南米は失敗国家ばかりになったのかについては、アメリカの文化の中軸が「入植者」にあって、中南米の文化の中軸が「移民」にあるせいではないかとも思うのだが、それはまた別のテーマになる。
1812年の米英戦争があったにしても、覇権国家の移行が、英国からアメリカへと比較的穏健に進んだことについては、英国側の自制によるところが大きい。被従属化させられないと見ると、英国はアメリカに対して「関係を維持してゆく」ことを至上命題として維持した。
英国人の持つ戦略眼の確かさは、実際凄まじい。そのDNAは英国からアメリカには伝えられていない。根本的なところでアメリカは英国的国家ではなくドイツ的国家なのである。その関係の中で、アメリカは何度も英国をいたぶったし、戦争へ至ったとしても不思議ではないケースもあった。しかし英国は、戦術的な要素に引きずられずに戦略的な基本方針を維持したのだ。
これは覇権国家の移動をマネージすることで、エントロピーを減少させる試みであった。
英国の例を見れば、変化をマネージすることで穏健化するのが是だとしても、ただついていく、だけでは駄目だということは言える。将来を見通し、戦略的視点を伝え、教育し、理解させ、より大きな利益の中で現状維持国と現状変更国の利害をアウフヘーベンさせてゆく、そうした理想的な移行関係が米英外交史においては見られる。
戦国時代の日本に当てはめてみれば、踏まれても蹴られても織田家に着いていった徳川家の戦略に似ていて、徳川家の戦略はそれで正解だったわけだが、徳川家から織田家に対して、天下布武へのロードマップについてもっとサジェストがあっても良かったかも知れない。その中で、織田家の隆盛が単に織田家のみの隆盛ではなく、秩序の回復と言う国家的な利益につながり、その中で徳川家は十分な利益を得られるということを合理的に示すことが出来ていたならば、信長は合理主義者だから、合理的に考えて徳川をいたぶる必要を認めなかったかも知れない。
「合理的なエゴイスト同士の間では話が通じる」
のである。

外交の目的

外交のそもそもの目的は「不確実性」を減少させることにあると思う。究極的には平和の構築に目的があると言えるが、平和主義が却ってエントロピーを増大せしめる場合があるのは、ネヴィル・チェンバレンの路線が失敗した史実を例にしても言えると思う。
ヒトラーチャーチルを戦争屋、好戦家と呼んで非難したが、両者の戦争路線に違いがあった点を上げれば、ヒトラー軍国主義エントロピーを増大せしめたのに対して、チャーチルの戦時体制はエントロピーを減少せしめた点である。


基本的には外交政策の是非は、エントロピーの増減の視点で推し量られるべきだと思う。
この視点で見れば侵略戦争は基本的には侵略された側が悪い、という前提で捉えなおされるべきだと思う。
侵略されたと言う事実は、侵略が可能な状態で力の空白があったということであり、エントロピーを増大せしめていたからである。
ある小国が自衛可能な十分な武力を持つ、または徹底抗戦の姿勢が国民の間に見られるのであれば、侵略コストが膨大になるため侵略を誘発しないのである。また、そういう国であれば列強諸国にとっても、他の列強の軍事勢力下に陥るリスクが小さいため、独立を尊重できるのである。
侵略戦争を含めたほとんどの戦争が、予防戦争として生じていることを踏まえるならば、侵略戦争はいけない、侵略された国は被害者であるとする従来の戦争観は、かえって戦争を誘発するものであると考える。
侵略戦争は、侵略する側にとっても現状の秩序を維持するために止むを得なくされることが多いのであり、他に選択肢がない状態で行われることが多い。従ってその点で、侵略国がエントロピーを減少させようとしている側であるならば、侵略国を責めても無益である。やらざるを得ないことをやっているだけだからだ。
真に問題とされるべきは、小国がエントロピーの問題について正確に理解しているかどうか、エントロピーを減少させるように合理的に振る舞っているかどうかである。


小国にとって唯一合理的な外交政策は、現状維持国の側に立って、同盟を誠実に履行することだけである。
しばしば小国は、エントロピーの増大の中に、自国のフリーハンドを見出す傾向にあるが、それは地域のエントロピーを増大せしめ、現状維持国、現状変更国双方に侵略のインセンティヴを与える。大国が小国の振舞いによって、手足を縛られることを容認するはずがないからである。
小国にとっては現状維持国は既知の脅威である。現状変更国は未知の脅威である。そのため既知の脅威に対する警戒心に引きずられがちではあるが、未知の脅威への接近は、未知であるがために既知よりもはるかに危険である。
現状変更国が小国に気遣うべき理由は更にないわけであるし、現状維持国に対してもエントロピーの増大に対処しなければならないというインセンティヴを与えるからである。
小国が地理的、権益的に重要であれば大戦争を誘発する引き金になりかねないし(そしてしばしば小国は戦場になる)、それほど重要ではないと見なされれば、大国間の取引材料に堕すだけである。
そうした事態を避けるためには、小国は現状維持国と同盟を結び、同盟者として十分にメリットがあることを示す必要がある。現状維持国にとって、最大の目的はエントロピーを減少させることにあるのだから、小国のどっちつかずの政策によって小国自体がエントロピーを増大せしめる装置となる場合は、むしろ敵と捉えた方がエントロピーの増大を防ぐことになる。


なぜしばしば、戦間期ポーランドのような愚かな小国が出現するのかという命題は、それ自体が興味深いテーマではあるが、たいていはナショナリズムに引きずられて、ということになる。
同じヨーロッパであっても、ノルウェーははるかに信頼性のおける同盟者である。単に人口や経済規模だけではなく、諸々の局面において合理的に振る舞えているかどうかがその国の同盟相手としての価値、国際的なインフルエンスの価値になる。
ノルウェーは同盟者として価値はあるがポーランドには二束三文の価値しかない。
問題は、戦後の歴史学の視点に置いて、エントロピーを増大せしめたポーランドの責任を問う声がほとんどないことである。これはイデオロギー上の善玉悪玉に引きずられて、バランスオヴパワーを前提とした構造問題にまで分析が達していない、あるいはイデオロギー勢力によって敢えて歪められているからだろう。
これは「大戦争を避けるために構造を理解して全力を尽くすべき」という現代人の最重要倫理からすれば、どれほど非難してもしすぎることのない欺瞞であろう。