故郷なき人

[孤衆の時代]
大衆の消失は80年代から言われてきたが、大衆としてくくられるある種の塊、それは個々人が帰属する社団の集合体であるのだが、それらが消失した世界は既にデフォルトである。例えば、80年代にはまだ、30歳を過ぎて結婚しない者はごく少数だったが、今はむしろ多数派である。
これは単にあるべきロールモデルが消失したというにとどまらず、そのロールモデルによって支えられた無数の社団が消失したということを意味し、人々は帰属先を持たない個人となった。
このことがもたらしている影響は多岐に及んでいる。
マスメディアの退潮がそのひとつであり、政治にあっては自民党の長期低落傾向もこれに起因する。


[社団vs個人]
社団は国家と個人の間に位置し、国家に対しては個人を、個人に対しては国家を代表する。一人の人間がひとつの社団に属しているのではなく、別個に絡み合った複数の社団に所属している。
企業、宗教団体、地域互助社会、政党、コミュニティグループ以外にも、夫婦、家族もまた社団の一種と見なすことが出来る。
社団を介した統治は、個人が社団に属することによって、個人の利益につながる。しかし個人が社団に所属しない時、社団を重視する、もしくは社団のために行われる政治は個人を抑圧するものとなる。
社団集合体である自由民主党が支持を集めるのが難しくなっているのは、社団の外側にいる個人の量的な増加があるからである。


[社団モデルの崩壊]
社団を重視する国家においては、国家が果たす権能のうち福祉的な部分は社団に委ねられることが多く、政府はより小さな規模になる。社団を重視する国家の長所は以下のとおり。
・より細やかな住民自治が可能になる。
・政府からの自由が保障されやすい。
対して、その短所は、以下の通りとなる。
・社団内部、あるいは社団間の文化的抑圧から個人は自由になれない。
・社団外の個人に対して社団モデルは抑圧となる。
この短所の現象が特に起きているのがここ20年の現象であり、日本国民は一貫して、この20年、社団モデルを崩壊させる政策を支持していると見なすことができる。


[国民国家の再構築]
福祉社会における国民国家とは福祉の否定ではない。それは社団モデル国家において、社団が福祉部分を担っていたから社団の否定=福祉の否定に見えるだけであって、福祉なりその代償としての帰属意識の対象を社団ではなく国家に置き換えようということである。


[パトリオティズムによる抑圧]
パトリオティズムは帰属する社団に対する忠誠であるから、必然的にそれは故郷を持たない人たちを排除する意識となる。故郷を持たないとは、文字通り郊外のような場所で生まれ育つという意味でもあるし、地域互助社会から排除されているという意味でもある。そのような人々が帰属する先としてより公共的な国家を見出すのは当然であって、ここではナショナリズムパトリオティズムの対立が見られる。社団モデルの崩壊と、にも拘らず社団を維持しようとするベクトルの中で、社団に帰属しない人たちはより脆弱な人々であり、そうした人々のナショナリズムを笑うということは、貴族的特権性とその意識の表れである。
社団モデルが十全に機能していたときでさえ、例えば性的マイノリティや被差別者などは、より支配的な社団からあらかじめ排除されていたのであり、その社団意識の表れであるパトリオティズムを称揚する意識は、抑圧に対する加害者の鈍感以外の何物でもない。
国民国家ナショナリズムは、グローバリズムの世界にあってはむしろ弱者の救済手段となるのである。