生き残るために学ぼう

義務教育の内容については、実学中心で、という考えに賛成する。私自身は余り役にも立たない、文学やら歴史やら数学やらに耽溺した少年時代を持っているのだが、後悔はしていないが日銭を稼ぐという意味で生きていく上で何か役に立っているかと言われれば、別に役には立っていない。
急いで言っておくが、役に立たないから無価値だとか、そういうことを言いたいのではない。礼節を知る前に衣食が足りるのが大事だろうと言いたいのである。
教育はまず、その子が生きていくうえで助けとなる力を与えることに主眼が置かれるべきだと思う。議論をしたり、教養を蓄える「必要」はいつの時代も一握りの知識人のものであり、知識人なるものは烙印を押された人種なのだから、放っておいても、ゴミの山の中から一冊の本を自分で探し出すのだ。
そういう奇特な人たちを標準に据えるわけにはいかない。


このまま行けば、日本が人口動態的に破滅へ進んでいるのは明らかだ。これからの子供たちはそういう世界で生きていかなければならないのだ。
日本文化が発信力を持つのもおそらくここ数年の間のことで、文化と経済力は比例して当たり前なのだから、半世紀後には日本はたぶん忘れられた国になるだろう。
そうした世界で生きていくのに必要不可欠になるのが、英語であり、習得可能であれば北京語である。
おそらく日本人の英会話能力は格段に向上していると思われる。旧植民地の人たちや観光地の人たちが流暢にヨーロッパの言語を話すのと同じことである。
劇的にシュリンクする日本経済にあって、外部世界とつながることなしに、生活が成り立つはずがないのだから、もはや英語が出来ない人は「人並みの生活」を送る資格がない。
古典や詩歌を学ぶことに意味が無いとは言わないが、「飢えた子供の前で岩波文庫は意味を持つのか」という命題を身をもって経験することになるだろう。
日本の義務教育はその内容を、世界の激変に伴って、劇的に変化させるべき時期に来ている。
それに失敗したり滞れば、損をするのは義務教育にしか手が届かない貧困層の子供たちである。


敢えて言うならばこれからの日本の子供たちは「おしん」になるのである。
おしん」に必要なのは読み書きソロバンだった。彼女にクラシック音楽を教えたとしても、それで彼女の未来がどうこうなるものではなかった。
国語教育も結構、歴史教育も結構、しかし今までは私たちは自分たちの子供は自分たちの家で育ててきた。これからは他人様の家に奉公に出さなければならないのである。
そこで必要になるのは、風呂焚きの技術や子守の技術だろう。
それが現在では英語なのだ。


英語を身につける上で、授業枠が足りないならば、音楽や美術の時間を削るしかない。場合によっては国語や地理や歴史の時間も同様であろう。
教育は子供にとっては生きるか死ぬかの問題である。いたずらに教養主義者の手に委ねてよいものではない。