トリアージ、補足

私の父方の親戚に、創価学会員のものすごく精力的かつ有能なオーガナイザーがいて、私の父方の親戚は次々とこの人の前に陥落していった。そういうわけで、父方の親戚は学会員ばかりである。
私の父は、創価学会をすごく嫌っていた。
創価学会に限らず、宗教やイデオロギーを甚だしく嫌悪していた。
父が言うには、「うちは馬鹿のくせにやたら社会問題に首を突っ込みたがるのが多いから、ああいうのにいいかもにされるのだ」と言っていたが、創価学会の人が聞いたらいい気はしないだろうが、なにぶん故人の言っていたことである。
本題でもないので聞き流して欲しい。
妙なところで心配性な人で、私が授業の必要から資本論の解説書を居間で読んでいると、息子がアカに染まりはせぬかと古典的な心配をしてたようで、ああいうのも今、思い返せばおかしくも懐かしい。
私は父ほどははっきりとは意識的に宗教やイデオロギーなどのイズムに批判的ではないが、どのみちそうしたものを熱心に信じる性格ではないのは同じことだ。
ともかくそういう経緯もあって、うちは分家の分家の分家くらいなのに、一族がことごとくうちを除いて創価学会に転じたために、祖先の供養をうちで引き受けなければならなくなり、宗教から程遠い家庭であるのに、法事をしばしばやっていた。
宗派は西本願寺派である。
法事に際しては坊さんが短い法話をするのだが、その中でほとんど唯一心に残っているのが以下の話である。
阿弥陀仏衆生を救う時に誰から救っていくのか。
いい人からですか、と誰かが言うと、それは否という。
衆生とは不特定多数のことであり、その衆生を救うと本願をたてられた以上、阿弥陀様はお選びになられない。手の届くところから順にお救いになられる。
この考えはキリスト教の予定説に似ていると思う。
救済の基準が善悪ではないというところに。基準が無差別であるというところに。


トリアージをめぐる先の文で、私は選ばないと書いたことを、選ばないと言いつつ選んでいるとの指摘があった。
しかしそれは基準の無差別を選んでいるというのであれば確かに選んでいるのだが、基準を選んでいないという意味ではやはり選んでいないのだ。
私自身はほとんど宗教的な人間ではないと思っているが、子供の頃に聞いた法話の影響が多少はあるかも知れないという意味においては、敢えていうのであれば、やはり浄土真宗の信徒になるだろう。
信じる信じないではなく、このように言うことは宗教的にはおかしいのかも知れないが、思うところを言えば浄土真宗の考え方を私は「気に入っている」。
それはべつに浄土真宗という体制の支持者というわけではない。蓮如さえもどうでもいい。
親鸞の考え方を私は気に入っているのだ。


選ぶということは基準を支えると言うことであり、そのことは基準において基準から外れる人たちを抑圧するということだ。
現実の処理において少なからず「選ばない」という選択は困難だ。私は何かしらを選ぶ行為そのものを全否定しているわけではない。
ただ、どれほどその基準が現実として正当かつ妥当であり、広く合意があるのだとしても、そこから漏れる人たちにとっては抑圧として作用しないことはない、ということを言っているのであって、善意や正義心から基準の妥当性を主張し、時にその基準から漏れる人たちの不遇を指摘する声さえも「反動」とラベリングする行為にあっては、それは行き過ぎた正義を持つことになってしまうだろうと思っているのだ。


幸福の科学の書籍は時々、読み物として非常に斬新なものがあって、いつか読んだものに、霊界の坂本竜馬織田信長があの世での処遇のされ方に疑問を呈するというものがあった。
織田信長は数々の非道を成したがゆえにあの世では非常に不遇な状況にあるという。
しかし竜馬が言うには、それはちょっと違うんじゃないか、彼がやったことは一面においては悪だけどもそれによって歴史を拓いたのではないか、そうであれば彼はむしろ大善をなしたのではないかと「言っていた」。
べつだん珍しくもない信長評だが、門徒の末裔としてはご先祖さまは虐殺されてよかったのだろうかと考えこむ。
どうなんだろうね。
いろいろに考えが浮かぶが、どうにもまとまらないまま考えをもてあそぶことを楽しむ。
そういう時、何も無理にどちらかを選ぶ必要もあるまいに、と私は思う。
ご先祖様はお怒りかも知れないが。