ネタにマジレスしちゃったのか、な?

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080401/p1
レスポンスありがとう。
国旗国歌の強制、もしくは国旗国歌拒絶の強制を大したことないと言い切っちゃうのはどうかと。いや、実は、私もたいしたことじゃないと思っている。思っているけど、他人の内心の自由はだいたい別の人からはくだらないことに拘っているように見える。
私が隠れキリシタンでも、十字架くらいはさっさと踏んじゃうよ。
自由の可能性/不可能性ということについて言えば、少なくとも国旗国歌に対する不服従の姿勢を示すことは、少なくとも生徒については石原都知事だって処分しないと明言しているのだから(というか出来ない、もし出来るんならさっさとやっちゃってるよ、あの人は)、生徒にクローズアップすれば、国旗国歌を明示することは、国旗国歌に対する不服従を誘導することよりも内心の自由への侵害は少ない。自由の可能性は担保されている。
自由の可能性ということについて、公務員が憲法秩序を擁護する一環として国旗国歌の掲示を受容することについては、確かに一定の保留されるがなされるべき場合もあると考える。例えば特別公務員はどうなのかという場合。それと職業選択の自由から言って、公務員となるより代替のないような場合。まさしく、外形的に選択可能でも、実質的には自由の可能性が阻害されているような場合は、公務員といえども内心の自由の侵害が憲法秩序の維持行為によって阻害される損失は決して無視はできない。
ただし教職員の場合は話は別。公務員でなければ教育に携われないということはないし、皮肉なことに公教育からの逸脱としての私立学校が矛盾を解消し得る手段となる。

ぼくが国旗・国歌の強制に反対する理由は、近代国家成立以前まで歴史を延長した「想像の共同体」のシンボルとしての国旗・国歌が、学校の卒業式において強制されるということは、まさに典型的な創られたナショナリズムそのものであり、その既成事実化を許すことはわれわれの国家や社会における「正義」や「公正さ」といったものに対して明確に敵対するから、である。

id:hokusyu氏の主張は了解した。私は憲法秩序を第一義的に優先する考えから同意はしないが(無批判に憲法秩序を過去に延長することはしない)、ひとつの歴史的経緯としては理解できる。
私は伝統や慣習の既成事実化を許容せず、無批判に強制させないために憲法秩序をより原理的に維持し支えることが必要だと考えているのだが、憲法秩序の第一義性からすればid:hokusyu氏の主張はご本人の言うように、政治的な主張である。残念ながら構造的には愛国心教育のようなものと同質のものと言わざるを得ない。少なくとも右派からはそのように主張されることが予想され、しかもその指摘は正しい。
そうなった場合、結局、正否は多数の支持に負うしかないのであって、たぶんそれでは負ける。よりラディカルな自由や人権の保持を言う政党がこの国では政権を獲得したことがない。

ここから先日の議論の文脈に戻る。憲法愛国主義について少し説明すると、そもそも憲法リベラリズム憲法を前提としている。リベラリズムももちろん一つの価値であるが、それは討議可能性に開かれているという点で他の様々な価値に対してメタ価値として機能するので、いっとう優れた価値であるとされる。つまり、国家の「愛国心」を持てという命令は不当であるが、それに対して教師が憲法的価値を守るために戦えという命令は不当でない、と言うことは、リベラリズムの立場としては少なくとも一貫性が無いわけではない、というしかない。

リベラリズムの立場としてはそうだろう。問題は少なくとも憲法の外形はイコール、リベラリズムではないということだ。敗戦の結果であろうと、押し付けであろうと、私は日本国憲法があって本当に良かったと思っている。憲法によって保障されていることによって、日本の人権状況は改善されてきたし、伝統社会に生きてきた日本人が自発的にこのレベルの憲法を制定できたかどうか心もとない。
その意味で、リベラリズム憲法を前提とすることに、むしろ主観的には共感するのだが、民主的な手続きによる改変の可能性をどう評価するのだろう。
今この段階で、自分なりに充分に練られた形での考えはない。これはひとつには、現実に憲法=日本国憲法であるからで、リベラリズムと現行憲法が矛盾していないからだ。
つまり思想信条の発現としてのリベラリズムの否定はリベラリズムによる自由の尊重という枠内において許容されていると見るべきで、リベラリズムそのものを不可能ならしめる否定は否定していると考えられる。果たしてそれが憲法が負う多数の同意という正統性に優越するのかどうか。
それについてはおいおい考えてゆくことにしよう。
さて、憲法的価値を守るために戦えということは憲法秩序に沿って言うのであれば、実際にそれに対する不服従の自由が残されている限り、少なくとも憲法秩序を支持するものとして正当である。ただしそれはその価値がリベラリズムであるからではなく、憲法によって保障され支持されているからだ。
そして国旗と国歌は憲法秩序の表徴であり、その掲示行為は憲法秩序を支持することであって、掲示を拒否することを誘導することはそうではない。国旗国歌の掲揚が憲法秩序を維持するために、少なくとも学校の儀典において絶対不可欠と言うわけでは決してない。しかしそれを掲揚することが憲法秩序に反するとまでは言えない。

中道は絶対的だが中立は相対的なのである。たとえば上の例で行けば、男女平等に求められているのは法的なそれのみならず実質的なそれである。いかに原則として「男女平等」を一貫性を持って理屈づけても、それを実行しても実質的な社会関係からくる不平等は是正されないということはよく起こりうるのであって、実質的な平等を確保するためにアファーマティブ・アクションを実行せよということはなんら一貫性に欠けているところは無い。

重視されるべきは手続きであると同時にその手続きによって担保される実質であり、実質を保証することに別に反対はない。特に太字部分はまったく同意であると表明しておこう。
ただし助産婦の問題はアファーマティヴアクションとは何の関係もない。女性の雇用と言う観点からそれが主張されているのではなく、助産婦という職業の全体における比率から考えれば、アファーマティヴアクションとしてはまったく無意味であることは明白だ。それは絶対数の深刻な不足状況にあるのだ。実際に国会でなされた議論を参照する限り、女性のプライヴァシー権、異性に診察されることに対する拒絶感情をベースにおいている。
しかしこの項目は助産婦問題を言うためのものではないのでここまでで止めておく。