About "Wolf's Rain"

2003年製作のアニメ作品、"Wolf's Rain"をようやく視聴完了。
"Cowboy Bebop"と同じスタッフが製作したとのことで、以前からそのうちに視聴しようとは思っていたのだが、延び延びになって、ようやく先日、最終回を見終えた。
伏線を描くだけ描いておいて、収拾せずに尻切れトンボになるのが昨今のアニメの常なのだが、この作品は"まだしも"うまくまとめている方だと思う。
それでも、インターネットでの感想を読む限り、「いったいどういう意味なんだ?」と疑問を抱いている人は多いよう。
それ以外にもこの作品には最近のアニメ作品に顕著に見られる悪癖がやはりあって、製作状況がよほどタイトだったのか、第15話から4話続けて総集編を放送しているのもそのひとつ。
もし本放送で観ていたならば、その時点で私は視聴を止めていただろう。
逆に言えば、そういう部分は飛ばして観られる、ストレスなく観られるのも、「後でまとめて観る」利点のひとつだ。
総集編が入り込んだせいか、最終回となる第27話から第30話はテレビ放送はされず、OVAで発表されている。そのため、テレビ放送での最終話となる第26話も一見、最終回風にはなっているが、そこで視聴を止めた人には、いっそう、何がなんだか意味不明な話になっていただろう。
ただ、仮に、そうした尻切れトンボだとしても、何がなんだか分からないのだとしても、この作品を観た経験は、どれほど洗っても落ちにくい油汚れのように、心にこびりつくだろう。
そのことをどう評価するのか。
傑作であることの証とするのか。
あるいは、ただの滓だと見るのか。
評価はそれぞれだろうが、ともかく、この作品が一度見れば、忘れ難いものであるのは確かだ。


物語の基本は非常にシンプルだ。
荒廃した世界で滅び行く種族、オオカミ(人の姿に変化する)が、伝説の楽園を求めて旅をする。
ロードムービーでもある。
この基本設定を見れば、相応の経験があるアニメファンならばすぐに察しがつくだろうが、やがてたどり着く楽園は反語的な世界であるのだろう。
"銀河鉄道999"で、旅の終着点で提示された「機械の体」の本当の意味と、同じように。
もちろん、"Wolf's Rain"でも、楽園は普通に予想されるような、楽園ではない。しかしそれが反語的な世界であるのかどうかも良く分からない。
主人公キバは楽園にたどり着いたのか、着かなかったのか、これは描かれていないというわけではなく、描かれていてなお、解釈の余地がある。
最終話で描かれた景色を見れば、そこに描かれているのは明らかに現代の東京であり、それもおそらくは杉並区から西方向を見た景色である。
ファンタジーの中に非常に生々しい現実を放り込むのは珍しい手法ではないが、このことだけを見れば、楽園とはつまりこの世界、私たちが生きているこの世界、あるいは私たちが生きていることそれ自体にあるのだと言える。
この世界に生きる私たちにとって自明なように、この世界は楽園ではない。
しかしオオカミたちが夢に見た楽園であったのかも知れない。
その意味では、楽園はあるのだとも言えるし、無いのだとも言える。
この世界にも苦痛や恐怖、怒りや悲しみが濃厚にあるように、そしてそれらを含んでこそ世界であるように、楽園がただそこにあるのだとしたら、楽園とはつまりは生きること、世界そのものの無条件の肯定である。
生きることが祝福であるならば、生きることに伴う痛みもまた祝福である。
痛みは生きていることの証であり、生きていればこそ、痛みを感じることも出来るのだから。
祝福は生きること、つまり感じることにあるのであり、喜びと悲しみを区別する必要はない。それはともに生きている証であり、この生きていることの絶対的な肯定がすなわち楽園である。
解釈をすればそのようになると思う。
しかしこれは私たちの通常の感覚からすれば、やはり救いがないと感じずにはいられないのであって、それを救いがないと見るのであれば、この物語は救いがない話である。
救済は救済を越えた外にあると見るのであれば、その救いがない話こそが救済そのものを描いている物語だとも言える。
"Wolf's Rain"は確かに伏線のすべてを消化しきれているわけではないが、この物語の分かりにくさは、その不徹底さにあるのではない。
救済の意味をめぐる、二面性の解釈にある。
だからこの作品の「分かりにくさ」を考える時、私たちはパズルを解くような推理をするのではなく、答えを自らに問いかける思想的な戦いを強いられるのである。
私にはこの作品が傑作であるのか、そうと呼ぶべきでないのかはまだ判断がつかない。もし判断をつけられるとしても、ずっと長い時間が必要になるだろう。
ただ、とても忘れ難い作品となるだろうことは確かだ。
それが傑作の証であれ、あるいはただの滓であれ。