認知と血統主義

日本の認知は意思主義とも言うが、そこまで断じられるのかどうかはやや疑問が残る。
認知が血統に基づくことと、それでいてなお、意思による認知を必ずしも阻害しないこと(状況に応じて“最善”が判断されること)には矛盾は生じない。
これまで言ってきたとおり、私は国籍法改正については明確に賛成の立場に立つ者だが、議論を見ていて成されていない「穴」があるというか、法解釈においてやや行き過ぎの面もあったように感じるので(私にではない。賛成派の一部に、である)、その点を指摘したい。
まず基本として日本において親子関係の確認と、それに伴う権利の授与(国籍付与など)や義務の発生(扶養義務など)が血統主義でなされている。
血統に基づかない親子関係の構築も養子縁組などで成されているが、それは血統による親子関係を基盤としたうえでの修正であって、親子関係において民法においても国籍法においても血統主義をとっている(ここで言う血統主義は法的な意味であって生物上の意味ではない。しかし後述するように法的な血統主義の妥当性は生物上の血統主義によって担保されている)のは厳とした事実である。
これがいいかどうかは別として、少なくとも民主国家の選択においてそのような選択がなされているのであり、法的な基本体系に対して、民俗的な歴史事実、日本のイエ制度の観点などから否定するのは間尺のあわない話である。
むろん、一方が歴史的な話として日本の伝統として血統主義を主張しているのに対して、批判としてそうした事実を指摘するのは議論上、あり得るのではあるが、それは限られた議論という土台における弁論術上の要請であって、法律の話とは関係のないことである。
法律上は、民法上も国籍法上も血統主義に基づいているとしか言えない。
認知において、生物上の血統の確認が要件とされておらず、嫡出子を含めて生物上の血統主義と法的な血統主義にずれがあるのを許容されているのは、認知・親子関係の確認が基本的には権利ではなく義務として捉えられているからである。
つまり、認知や親子関係の確認において、親側は義務を負うばかりでありそれによって得られる利益はないと捉えられているからこそ(そしてその認識はおおむね実態にそぐうものである)、やや緩めに運用される余地があるのであって、基本的な発想は子の福祉を守る観点からなされている。
高田延彦向井亜紀夫妻が原告となった子の国籍確認訴訟において(高田・向井対日本国訴訟)、焦点となったのは、出産という明確な基準の是非であり、それによって子の福祉が守られる利益と、それを貫徹することによって特定の子(代理出産でうまれた子)の福祉が阻害されること、どちらを重視し、どの程度の折り合いをつけるかということであった。
あの訴訟では現実的な解決策として、特別養子縁組で救済することを最高裁は提示しているが、手続き的には特別養子縁組はこの場合、不可能であり、実際それはなされていない。その意味で救済措置として機能しないシステムを救済措置として提示することは、最高裁が特定の子の福祉を阻害したと評さざるを得ない、不当な判断であったと私の意見としては言わざるを得ないのだが、最高裁は親子関係の確認において法的な血統主義を守ったということは言える。
代理出産でうまれた子の利益を犠牲にしてまで、法的な血統主義を守ったのだから、日本の法律上は法的な血統主義が基盤にあるとしか言えないのである。
ただ、このことと国籍確認の権利がただちにリンクするとは言えない。
実家との関係が完全に切れる特別養子縁組の場合でも、養親が双方とも日本国籍であっても子が外国籍・無国籍であるならば、帰化手続きをしない限り「出生による国籍取得」は出来ないのであって、法的な親子関係と、国籍法上の血統主義はまた別の問題である。
つまりそれがどうやって確認されるのか、確認を義務付けるのかは別の問題として、国籍法における血統主義は子である当人が日本国籍者の血統に属することが重要なのであって、この場合の血統とは生物的な意味であり、法的な血統主義とは微妙に意味がずれている。
生物的な血統が法的な血統主義で担保されると考えられるから、法的な血統主義が基準として有効になるのであって、最終的な判断基準は生物上の血統である。
この意味において、国籍確認の要件としてDNA鑑定をなすこと自体は、違法とは言えず、法的には可能であると結論づけるよりない。
ただしそれを「義務付け」とした場合に生じる具体的な問題において(例えば検体の確保)、憲法14条違反となる蓋然性が非常に高いという話である。
私が思うにDNA鑑定義務付けの問題として指摘される事柄のうち、認知の意思主義や法的な血統主義との整合性を言うのは、ほとんど無意味である。
というのは既に指摘されたとおり、法的な血統主義はあくまで生物上の血統主義を担保するための類推手段であるに過ぎず、しかも民法と国籍法とは血統主義の意味合いが微妙に異なっているからであり、法的な血統主義と生物上の血統主義は対立するのではなく、双方を満たすことが求められていると言えるからである。
その意味では、こうした法的な血統主義の問題に偏った答弁をなしたDNA鑑定義務付け否定の政府見解は必ずしも詳細を検討しているとは言い難いのであって、最大の問題は検体の確保にあるというのが私の見解である。


[補足]
民法においても例えば300日規定問題は、一見、生物上の血統主義が否定され、法的な血統主義が用いられることに伴う問題であるかのように見える。しかし、不充分ではあるがDNA鑑定などに基づく生物上の血統による救済があること自体、生物上の血統主義が本来の基準でありそれをどう認定するかと言う技術的な問題であることが伺える。
本来、技術的な類推手段である法的な血統主義が、類推の表れとして基準に据えられることによって、それが実体を類推するための手段であるという側面が切り捨てられている。このことは、親子関係の確認がDNA鑑定が存在しなかった頃の残滓であるとも言え、そうした「やむを得ざる措置」に積極的な立法意思を見出すべきなのかどうか、はなはだ疑問である。
もちろん、現に法的な血統主義は基準として存在していて、それに伴う親子関係の確認がなされている以上、いまさらそれを一律に否定したところで混乱は必至だが、それを絶対のものとして死守するのもまた代理出産に伴う問題のように混乱を生じさせている。
国籍法での国籍確認の場合は、両親が日本人である場合とは異なり、国籍の発生という問題が生じるのであり、遺伝的な証明を求めること自体は不合理とは言えない。
ただし、実は同様の問題、父母の遺伝上の不確定の問題は、両親が日本人である嫡出子の場合にも発生しているのであって、これは法的な血統主義の信頼性をどこまで求めるかという、信頼の程度の問題である。
信頼の程度の問題は、合理と見なされれば区別と見られるし、合理性が欠ければ、あるいは損失が甚だしければ差別になる。しかし区別の範囲内(少なくともそう見られる場合においては)で、刑事事件の容疑者の保釈の認可、保釈金の額の算定などが一例だが、現実に信頼の程度によって運用が成されている制度が合法的に存在するのもまた事実である。
この意味において、両親が日本国籍の者については法的な血統主義のみを求め、片親のいずれかが外国人である場合は、特に子の国籍問題が焦点を帯びることから、生物上の血統確認も求めることは一概に差別、つまり憲法14条の定める法の下の平等に反するとは言い切れないと思う。
ただし、母系生後認知外国籍婚外子には日本国籍を認め、父系の場合はそうではないというのは、出産という明確な基準が仮にあるとしても、確実に「母親」から子が生まれたという証明が難しく、偽装の余地が同じくあるため、両者を比較した場合、区別を設けるのは差別であると言える。
繰り返すが、私はDNA鑑定を国籍取得に際して求めることが法理的に違反になるとは考えない。
ただし、義務付けた時に検体の確保をどうやって担保するのかは、これは断定できることだが、絶対確実に担保することはできない。
ゆえに、検体を「不運にして」確保できなかった子が、鑑定を義務付けられた時に国籍を取得できなくなるので、憲法14条に違反するのである。


[再補足]
ブックマークコメントで、高田・向井訴訟で法的な血統主義が生物上の血統主義に優先するとの判断が出されたのだから、法的な血統主義がベースにあるのではないかとの意見があった。
もっともなご意見だと思う。
このあたりはやや(というかかなり)錯綜している。
私が言っているのは、法的な血統主義はそもそも生物上の血統主義を担保するための手段として基準としてあるのだが、その基準が絶対性を帯びているために生物上の血統主義そのものよりも優先されているということである。
そしてそれはDNA鑑定が存在しなかった時代の残滓であって、残滓ではあるが現に存在する基準なのでこれを一律に改めることは非常に難しい。
しかし法的な血統主義がなぜ、ああいう外形をとっているのかと言えば(出産という明確な基準、婚姻という関係性による基準)、それが生物上の血統主義を担保すると考えられているからであって、通常の外形を伴わず、なおかつ国籍の発生という特殊な事情がある場合には、生物上の血統を含めて、担保とすることは違法とは言えないだろうということだ。
これが少数意見において(もちろん効力はないが)DNA鑑定が法理的に否定されなかった理由であり、今後、法学上の論理構築がなされるであろうポイントである。
つまり、認知という個人のみに関わる義務が発生する場面では、法的な血統主義で一律に処理されるのだとしても、外国籍、あるいは無国籍者に国籍を与えるという公益、第三者の利害関係が絡む場面においては、別途の基準も加えられることはあり得るのであり、それは違憲とはみなされない可能性が強い(←簡単に言うと言いたいのはこれ)。
ただしそれでも検体の確保は絶対的に担保できないのだから、鑑定を義務付けると違憲になりますよということ。