オーストラリアの外交政策

オーストラリアはアイデンティティの危機に直面しているのではないかと思う。今後の動きが「面白い」国のひとつだ。
外交政策もそれに応じて、かなり基本的なレベルで二転三転している。
オーストラリアの特徴を整理して考えてみよう。

侵略によって築かれた国である
現在の世界的なイデオロギーから見て、負の側面を根本的に持っているということだ。「正義」の側に立たないことは国家にとって致命的な負荷をもたらすし、オーストラリアの場合はこの所与の条件が「他と比較してもよりリベラルな行動基準を掲げざるを得ない」という、外交的な選択肢の狭さとして表れる。具体的には他のアジア諸国のような、「民族主義」を掲げることはオーストラリアには許されない。オーストラリアという風土に根ざした「民族国家」として生きる選択肢が許されないため、普遍主義に流れる傾向が強い。また、多文化衝突を国内に抱え込むことになる。

白人国家である
アメリカと比較して、オーストラリアには「独自」の歴史が無い。アメリカの歴史と政治体制が明確に英国史と切り離されるのに対して(従って、英国帝国主義の歴史からは昇華される余地が大きい)、オーストラリアは英国の支店であり、未だに充分に融合していない。同様の条件にある南ア、カナダと比較しても、南アは黒人が多数派であり、黒人が政府を代表するのだから、帝国主義負の遺産からは基本的にフリーである。カナダは有色人種国家に囲まれているわけではなく、また、原住民との関係もそれほどセンシティヴではない。オーストラリアは、帝国主義負の遺産の最前線として、これに直面する地政学的な位置づけにある。

英語国民である
オーストラリア人がアメリカや英国で活躍することは珍しいことではないが、白人であるという人種的な条件、英語国民であるという言語的な条件、英連邦の一員であるという法的な条件によって、アングロサクソン世界において中心性を獲得している。地政学的に辺境でありながら、世界性を持っているという、特殊な条件を備えている。このことは、アングロサクソンとしての世界性と、オーストラリアの地政学的条件の間で、基本的な外交政策が引き裂かれる可能性が高いことをも意味している。

単純に地理的な条件で考えれば、オーストラリアにとって中国は現状、差し迫った脅威ではない。むしろ、インドネシアやインドの方が潜在的な脅威としては存在感があるだろう。
本来、オーストラリア単体で考えれば、日米と歩調を合わせた外交政策はとりにくいはずなのだ。中国が脅威となるとしても、それはむしろ「移民」の文脈に沿った、国内政策上の問題として浮かび上がってくることで、インドやインドネシアについても同様のことが言えるはずである。
純粋に外交的な意味において、日本にとってインドやインドネシアが脅威たりえない以上、日本とオーストラリアの利害が一致することもあり得ない。
しかしながら漠然と、アジア地域における白人国家の維持を考慮すれば、基本、現状維持派の日本とアメリカとは「世界観」が一致している。それはむしろアングロサクソンの中心性に由来するもので、オーストラリアとは何か、オーストラリアはどのようであるべきかという問いかけと関係してくる。
保守派のハワード政権で、日米印との戦略的パートーナーシップ構築に踏み込みながらも、リベラルのラッド政権で足踏みしているのは、そういう事情である。
ある意味、ラッド政権の方が「(コスモポリタンである)オーストラリア人」ではなく「アジア地域におけるオーストラリア国家」に軸足を置いた眼差しを持っているとも言える。
世界観がより単純であった冷戦時代的な感覚では、日豪関係ももはや語れない局面に至っていると見る。
オーストラリアにとって今後生じてくるのは、「オーストラリア国家重視派」が主流になっていったとして、国家的な利害と普遍的な世界観で齟齬が生じることが多々でてくるだろうということだ。
オーストラリアが実態よりも強い影響力を持っているのはアングロサクソンとしての世界ネットワークに位置づけられているからで、それは帝国主義の遺産である。オーストラリア人に「本来、弱小国の国民である」というアイデンティティが形成されていないことが、オーストラリア独自の利害を越えて、より普遍性の高い問題に関与してしまう危険をもたらす。
アメリカのような世界帝国でもなく、英国のようにより安全な地政学的な位置にあるわけでもないのに、その違いを国民レベルで認識できないという危険である。
また、普遍的なスローガンは、例えば日本のような国家にとって、事実上、国家そのものの基盤とは別の次元にある。日本国の根源的な核は、日本民族の言語と歴史の一体性にあって(法的な国家として、私はそのことを必ずしも肯定的に捉えているわけではない。私は「民族派」ではなくむしろその反対派である)、普遍的なスローガンはかりそめのものに過ぎない。
極論をすれば、天皇がいれば、民主主義国家であろうがなかろうが、日本は日本であるのに対して、今後、普遍国家へと進まざるを得ないオーストラリアにとってはスローガンはもっと致命的なものである。
つまり、倫理や価値観の問題において、国内上の要請から、オーストラリアは妥協可能性が極端に小さくならざるを得ないということだ。
そのことは単純に外交上の国益の観点から見れば、オーストラリアに負荷を与えることになる。
オーストラリアの外交政策はかなり難しい道を行かなければならないだろう。
今後も相当に基本的なレベルで、オーストラリアが二転三転することは予想される。
保守派には同盟者としてオーストラリアに期待する声もあるが、オーストラリアの意思のためというよりは、その不安定さのために、同盟者としては向かない国である。