LBJのこと

歴史学者とは到底言えない、せいぜいが歴史愛好者と呼ばれるような人たちの悪癖のひとつに贔屓の引き倒しがある。
特に通常の俗説ではわりあいネガティヴな評価があるような人物について、好意的な見方がわずかでも可能であれば、我の他に彼の人を知る者なし、とばかりに、事実の評価において極端であったり資料の取捨選択において恣意的であったりする。
英語で書かれた英国史掲示板でも、私は何度か「論争」に巻き込まれたことがある。
残念ながら新たに知見を広げてくれるようなことは殆ど無く、ごくごく狂気じみたやりとりばかりだった。
いったい世の人のうちどれほどが、未だにインターネット世界の片隅で、ヨーク家とランカスター家のいずれが正統かを争っている人たちがいることを知っているだろうか。
もちろん大抵のイギリス人にとってさえどうでもいい問題である。
私にもどうでもいい問題だが、聞かれればそれは白バラでしょうねと言うしかなく、論争から無縁ではいられないのであった。
ジョゼフィン・テイの歴史推理小説「時の娘」がリチャード3世再評価に一般人レベルで果たした役割は大きく、未だにあそこに書かれたことを鵜呑みにしている人もけっこういる。
確定している事実だけを言えば、彼が少年王の後見であったこと、少年王を廃して即位したこと、少年王とその弟を監禁したこと、これらは疑いようもない事実であって、そこから導き出される推論としてはテイの考えはいかにも無理がある。
果たしてそのようなものになってしまう危惧を抱きつつ、今日書くのはリンドン・ジョンソンのことだ。
現代史において彼ほど過小評価されている大統領も、他にいないのではないかと思う。
過小評価というよりも、はっきりと敵視されている。
ジョンソンはルーズヴェルト政権下で頭角をあらわしたニューディーラーだったから、もちろん保守ではない。保守が彼を賞賛するはずがない。
しかし、リベラルからすれば彼はロバート・ケネディの敵対者であり、ベトナム戦争の主犯であり、頑固なテキサス人である。
しかもジョン・ケネディ暗殺の首謀者との説も根強い。
しかし公民権法は彼の時代に成立したし、そのために南部人でありながら例外的に彼は尽力したのであるし、経済政策では大きな政府による福祉の拡充を目指した。
国内政策的にはかなりリベラルの極限に近い政策を採った大統領なのである。
しかし未だに瑣末なことまで取り上げられて、主にリベラル派から彼は批判されている。
それにはもちろんまったく理由がないわけでもなく、彼の帝王好み風のキャラクター、民主党員であるのが不思議なほどの基本的には保守的な性格が起因しているのだろうと思う。
南部の英知とも呼ぶべきフルブライトでさえ、公民権法に反対した時、ジョンソンはその成立に尽力しながらもなお、理想主義的な人物とは決して見られていない。
彼の性格、評価、それらと彼が実際に行ったことには大きな食い違いがあり、当時の南部人の常であったが、彼はしばしば私的な場面では人種差別について無神経な言動をとった。
そうしたことが、彼の行動が理想や信念に基づくものではなく、ごく功利主義的な動機によるものだとの感想を抱かせるのだろう。
彼がおそらく直接書いたものではないにせよ、ジョンソン政権下の幾つかの大統領演説は、非常に真摯なもので質が高い。彼の政権もまた理想主義的な60年代の影響下にあったのであり、ベトナム戦争を除けば「ケネディよりもケネディらしい政策」を遂行している。
いや、ベトナム戦争でさえ、ケネディ政権から引き継いだのであって、スタッフや閣僚のほとんどが同じである以上、ジョンソンに大統領としての責任を要求するのは当然だとしても、彼にほとんどの責を負わせるのは違うようにも思う。
あの時代にあって、ドミノ理論は非常に説得力があり、同じ立場に立たされて、ケネディやジョンソンと違った判断が出来たと言える人はほとんどいないようにも感じる。
もちろん未来から過去を見れば、ホー・チミンの主要な動機がナショナリズムにあったのは明らかなので、妥協は充分に可能だったとは思うにしても、マクナマラ回顧録などを読めば、ベストアンドブライテストとてもすべてを見通しているわけではないという当たり前の事実に気づく。
キャメロットでさえ間違った時に、ギャラハッドに一体なにが出来るだろうか。
そういうわけで、かの時代からすでに40年が経過してなお、ジョンソン政権の低評価は私にとっては、a mystery inside an enigma である。
ジョンソン個人にべつだんシンパシーを抱いているわけでもないので、極東の異邦人としてはジョンソンの評価が高かろうが低かろうがどうでもいいといえばそうなのだが、ここには単に個人の評価を越えた問題があるような気もする。
評価は評価される者を映すと同時に、評価する者をも映すからだ。