民主主義という言い訳

いろいろなニュースを読んでいて、複雑に対立した感情を覚える。
左翼の人たちは嫌いだろうが、山本七平の著作を読んでいて、後醍醐天皇の評価を考える。
今日的な視点で評価をすれば、後醍醐天皇のどこをどう扱えば評価できるのか皆目わからない。
彼は徹頭徹尾、愚帝に見える。
それはあの時代の人たちが持っていたコンテクストを私たちが持っていないからで、時代に寄り添う人ほど後から見れば愚かに見える。
それがイデオロギーというもので、今日ではそれは民主主義にあたる。
たいていの人がそうであるように、私も決して熱烈な民主主義者ではない。それでもチャーチルがそうであった程度にはおそらく民主主義者であろうし、他のイデオロギーには遙かに冷淡であるという事実によって、私もまた時代の中にいる。
イデオロギーとは錦の御旗である。そこには決して、問いかけはない。
なぜ?は存在しない。
尊王の時代にあっては、反逆者と呼ばれることはそれでもうオシマイなのである。


北京五輪をめぐるフリーチベット運動において、ことさら中国の非民主的な体質を批判する声があった。是であるとは思う。
1989年、メディアを通してだったが、少年の頃の私は民主の女神が倒されるのを見て涙した。
だが同時に、主に西洋人からなされるそれらの声の中に、歴史の無知、レイシズム、民主という御旗を手に入れた者の驕慢があるのもまた、私は確かに感じた。
正義は時に邪悪をも内包するのである。
決して他人事ではない。
日本人である私にしたところで、一歩、外へ踏み出せば、日本国内の排外主義や過去の罪業、時には捕鯨活動ゆえにジャップと呼ばれるのだから。
この種の、レイシズムゼノフォビアを目的とした正義からの攻撃に、私たち東洋人は多くの隔たりがあるにせよ協力しあうべきだし、出来ると思う。
韓国の犬肉食を嘲笑う西洋人に与するのは愚かしいことだ。


また、別のことを思う。
今のところ外信でも多くは報じられていないが、ボリビアで虐殺が行われたと言う。
今月初め、ボリビアでは先住民の権利を明記した新憲法が採択された。
西欧の旧植民地ではいずこでも見られる現象だが、社会の上部は白人が占め、有色人種は下部にある。フジモリの暴虐があったにせよ、バルガス・リョサあたりの尻馬に乗る気にはとてもなれないのは、彼らの民主主義がそうした構造をそのまま温存しがちだからである。
ボリビアでは大資本メディアは白人系に牛耳られており、ボリビア国内の白人勢力がなした虐殺を報じていない。
それを政府がどうこうしようとすれば「報道の自由」を犯すことになるだろう。
更にジンバブエのことを思う。
この国はかつてローデシアと呼ばれ、英国植民地帝国のモデルであった。
独立した後は白人との共存をうたい、穏当な政策へと移行したがゆえに経済的にも安定していたが、一向に変わらない白人が経済権益を牛耳る構造に、ムガベが「キレて」、今、破滅への道を進んでいる。
白人は経済構造の問題は、ただムガベが自らの独裁を守るために利用しただけだと言うだろう。
それはおそらくそうだろうが、しかしそこに憎悪をかきたてる構造があったのも確かであって、私はムガベの怒りがいちがいに筋違いとは思わない。
その先を考えれば私は混乱する。
アルジェリアは独立する際、フランス系住民を結果的に粛清し、その協力者をフランスへと追いやった。結果、アルジェリアには「フランス系住民問題」は存在しない。
それは暴虐であり悲劇ではあっただろう。
しかし気持ちは分からないでもないのだ。
天真爛漫なオーストラリア人などを見ると、鬱屈した感情を抱えているのを自覚せざるを得ない。


また別の話。
エルサレム賞の授賞式でイスラエルの政策を村上春樹が批判した。
それはそれで結構なことだと思う。
人はすべて政治的な存在であり、政治的に無自覚な人間はそれ自体で政治的である。
これは決して村上春樹を批判するのではないが、ただ、その批判自体も、それが行われたと言うことが結果的に政治的な意味を持ってしまう。
つまり批判を受容するイスラエル国家という物語を強化する。
確かに、同じようなことはおそらくサウジアラビアでは難しい。
中国でもまた、難しいかも知れない。
このことはリベラルなユダヤ人が、シオニストでもあるという欺瞞を覆い隠す意味をも持ってしまうだろう。
これは民主主義を御旗として暴虐をなす、というような分かりやすい事例では決してない。
ブッシュ・ジュニアはまさしくそういうことをしたわけだが、私はむしろブッシュのような人物と行為を非難する人たちの中にある「暴虐」を見ている。