as a libertarian

私自身、経済政策的には既にリバタリアンとは呼べない立場にあるが、少なくとも現実はともかく、理想とする筋道においてはなおリバタリアンだろうと思っている。
出来るかどうかは別として、ホリエモンが言うような、相続税100%に私は賛成であるし、それはつまり、あらゆる既得権益を悪とみなす思想が私の内にあるということでもある。
だから私は貴族制度、地主制度、カルテルに反対するのと同時に、専業主婦や英語帝国主義にも反対するのである。
現実としてどうだという話ではない。現実にはどこかで折り合いをつけなければならない。しかし折り合いをつけるという行為は一方に理想、あるべき姿が堅持されていればこそ可能になるのだ。
こういう感覚からすれば、親による子に対する虐待やある種の「ぬかり」を、「恨むなら親を恨め」とばかりにそこで思考停止してヒンズー教徒のような運命論で処理する人たちが多数いるのにはいつもながら驚かされる。
これは日本に根付いた仏教思想の影響なのだろうか。
仏教は時に差別を温存する装置でもあり、実際そのような役割も果たしてきた。これはあらゆる宗教に見られることかも知れないが。
PSJ渋谷研究所X:「親がアホ」のツケは子どもに回って当然なのか
を読んでいて、そのようなことを思った。
建前はともかくとして、高等学校の教育、その卒業資格は事実上、義務教育化しており、その資格は生存のうえで限りなく必須に近い。
私は高校教育を民主党が言うような義務教育にするのがいいとは思わないが、少なくとも望めば確実にその教育が受けられるような、学費の無料化、生徒の生活支援などの政策は必要だと思う。
生活保護を受けている世帯で、子の高校進学のための学資貯金を理由として生活保護費が削減されたケースで、すでにその措置は不当とする司法判断も出ている。
これは子の高校教育がいかなる経済的境遇にあろうが、既に決して贅沢ではなく、生存上ほぼ不可欠なものという認識が一般にあるからだろう。
コンビニエンスストアのアルバイトでさえ高卒を資格にしているケースも多いのだ。
まして、正社員の職であればなおのことだ。
単に親が貧窮しているとか、怠惰であるとかの理由によって子が著しく生存を脅かされるようなことを、私たちの社会は容認してはならない。
もちろんそのためには、相応の仕組を作っておく必要があって、この場合は、現実に生じる歳入の不足を誰が負担するのかという話になるだろう。
現状では第一の責任は保護者にあり、そのために、学校側は保護者に支払いを促すべく、卒業証書の不授与という措置をとったのだろうが、それで困るのは保護者ではない。
これは給食費未払い問題とまったく同じケースであって、例えば分割ででも支払う姿勢を見せていれば、おそらく学校側はこういう措置をとらなかっただろう。
このケースはまして公立高校の話である。
それさえしない保護者だから高校側は「追い詰められた」のであって、しかし、そのような保護者に道義を期待するほうが間違っている。
期待できないから強硬手段に出たのだろうが、そのような親が子のためを思って何かをすると期待するのがそもそも誤りである。
行為者とそれによって不利益を被る人が一致していないのが問題なのであって、これは親権が無条件に親に与えられているから生じている矛盾である。
もちろん親権を親に与えるという判断を政府がなしているということから読めるのは、そもそもの原親権は政府にあるということである。
だから、政府は場合によっては親権を剥奪したり、停止することも出来る。
それを過剰に振り回せば、オーストラリアの「盗まれた世代」のようなまことに唾棄すべき政策のようになってしまうこともあるのだが(というか、オーストラリアの場合はそもそも善意からなされた政策ではない)、このようなケースこそ、親権を停止したうえで、社会がコストを負担すべきではないのかと思う。