幻の地方分権

東国原氏、というよりも、いよいよ、そのまんま東氏と呼ぶべきなようも気もする昨今の宮崎県知事だが、彼が掲げている大義名分が地方分権である。これを大阪府知事東京都知事が言うならばともかく、なぜ宮崎県知事が言うのかが分からない。
中央集権の仕組みが無くなれば、宮崎県などはますます行き詰ることになるだろうに。東京や大阪の行財政の問題は、「分配」の問題である。宮崎の場合は分配するもの自体が無いのだから、「分配権」云々を取り沙汰できる立場でもないのだ。
では中央から切り離されて、ご自分でどうぞと放り出されて、どうして宮崎県が立っていられるだろうか。その県の知事が地方分権を言うとは、いったいどういう冗談だろう。


作家の野坂昭如氏は複雑な生い立ちで、自伝的小説「火蛍の墓」で描かれた経験は、彼の養父母との家庭での経験である。節子のモデルとなった妹も養女であり、血縁は無い。
戦後、「生き延びた清太」となった氏は実父に引き取られた。実父は新潟県副知事を務めていた。その関係から、早い時期から田中角栄とは顔見知りだったという。
氏は幼少期を阪神間で過ごし、少年期の一時期を新潟で過ごしたことになる。戦前、既に中産階級の生活があった阪神間と比較して、新潟は戦後でもなお暗く、貧しく、とても同じ国とは思えなかったという。
後に、野坂氏は「田中金権政治」を批判して、玉砕承知で旧新潟三区から対立候補として立候補しているが、それでも田中角栄氏を新潟人として尊敬しているという。
新潟のあの貧しさを知らない者に、どうして田中角栄が熱烈に崇拝されているかを理解はできない。


田中が首相として、中央集権の配分の仕組を極限まで稼動させた「日本列島改造」が登場するまでは、貧しい地方はとことん貧しかったのだ。
その姿が、ある意味、地方の地力である。その「列島改造」に都市住民が反対するならばともかく、宮崎県知事がどうこう言うとは、平仄が合わない話である。
近々、九州新幹線新八代・博多間が開通し、九州の鉄路の大動脈が完成する。長崎ルートも開通すれば、新幹線が通っていない九州の県は大分と宮崎だけになる。
大分はまだしも、宮崎は地理的にも交通的にも「辺境の辺境」になる。それでどうして自立できるだろうか。
東国原知事の言う「分権」が徹底されればどこよりも真っ先に立ち行かなくなるのが宮崎県である。地鶏を売ったところでとてもではないが追いつきはしない。
本当にこの人は宮崎県の利益を考えているのだろうか。
不思議でしょうがない。