国旗への思い

国旗に一礼は7人だけ…官房長官「あ、そうですか」 - 産経ニュース
今回の産経新聞の記事と、そのスタンスに好感的な意見が異常なのは、シチュエイションをまったく無視している点にある。
この状況は、儀典ではなく、記者会見なのである。
そうした実務的な状況で、背景として置かれている国旗に対して、何らかの敬意を示すことが「常識」であるのかどうかという考察が抜け落ちている。
私は敢えて、敬意、と「意訳」した。中には、国際儀礼を持ち出している人までいるからで、そもそも「お辞儀」は東アジアローカルな風習であり、salute や bowing とはまったく非なるものだからである。
仮に、お辞儀を salute や bowing に置き換えたとして、こうした背景としての、儀典というシチュエイションの中にはない国旗に対して、そうした行為を行うのがプロトコル上一般的かと言うと、そんなことは決してない。
儀典という文脈があればこそ、salute が無理なく組み込まれるのであって、例えば運動会の飾りの万国旗に対していちいち礼をして歩かなければ「非礼」にされてしまう光景を思い浮かべれば、産経新聞や、その記事の賛同者たちがどれほど非現実的で滑稽な要求をしているのかも明らかになるだろう。
例えばホワイトハウスで報道官のブリーフィングの際に、報道官が登壇する際に salute を行っているかどうかを見れば、プロトコル云々がどれほど笑止な脅迫概念かも分かるだろう。


儀典の中にあればこそ、国旗は象徴である。国旗をプロテストの意味で燃やすという行為が、ただの器物破壊以上の意味になるのは、プロテストの意味で燃やすという儀典性を帯びるからである。古くなった旗を廃品にして処分するのが、ただのゴミ処分以上の意味を持たないのは儀典性を帯びていないからである。
今回、この件で憤っている人たち(産経新聞も含めて)は、儀典性を帯びていない状況にまで、国旗の「神聖さ」を持ち込もうとしている点で、古くなった万国旗を廃品処理することに憤るのと同じナンセンスさを示している。
それは象徴としての国旗に対する敬意では既になく、旗そのものに対する盲愛である。フェティシズムは個人の趣味である分には別に構わないが、「俺にはネクロフィリア趣味があるのに、おまえはどうして死体を愛さないんだ、けしからん」と言っているのも同様の傲岸さである。


趣味はひとそれぞれであるとしても、公私の別は公人ならば当然求められることになるだろう。儀典性を伴わない実務の場所で、儀典性を帯びた国旗への礼という個人的な趣味を大臣が持ち込むことの是非は問われて当然である。
儀典性を伴わない実務という文脈に沿ってみれば、旗へのフェティシズム(象徴としての国旗へのフェティシズムではなく、旗そのものへのフェティシズム)なる個人的な趣味を持ち込んでいる大臣たちの言動の方が不適切なのであって、「個人的な趣味を、公務、公的な役割の上に置く」行為である。
こういう場所で、自分の趣味を優先させた大臣たち、野田聖子氏や石破茂氏らの方こそが非難されてしかるべきだと思う。