岡田外相と天皇を巡るデマ

国会の開会で、天皇陛下のお気持ちが込められるよう、配慮した方がいいのでは、と岡田外相が述べた件については、ご当人からエクスキュースが出ているようだ。
それを読めば、やはりこの人らしく、原理主義的な思考をしている。
天皇の国会開会宣言は国事行為であり、それに伴う「お言葉」もそれに準じるもので、終始、内閣の統制下にある。つまり岡田外相は内閣の一員として、アドリブ(めいたもの)を挿入する演出上の工夫を提言したのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
天皇陛下に注文をつけた訳でもなければ、国事行為の法的性格を否定したわけでもない。
「企画会議」において企画立案の意見を言ったまでのことであり、法的には何一つ間違ったことはしていない。
とは言え、岡田外相のこの発想が象徴天皇制下で、天皇の役割に従来の枠を超えて積極性を与えようとする、踏み込んだ考えであるのは否定できず、この発想には左翼からこそ反発が出てしかるべきだと思う。
象徴天皇制と言うよりは、岡田外相は君主制そのものを是としているのは明らかであり、それを国家的な、かつ政治的資産と見なし、有効活用しようとしている。
外務大臣らしい思考であるとも言える。
これを保守と言うか、尊皇家たちが叩くのは、ロジックを取り出して見る習慣と能力が彼らに無いからである。
そしてその政治的現実を軽視しがちな、原理主義者としての限界が岡田外相のこの発想と発言には見られる。
簡単に言えば、国民は彼が期待するほどには賢くはないのだ。
何が争点になっているのかさえ、見抜く力が無い人が大半である。その状況をデフォルトなものとしたうえで、状況に沿った政策を立てて行くのが現実主義の政治家の役目である。
単純に功利主義的に言えば、天皇の利用について、岡田外相の考えは是である。
しかし単純に功利主義がなせるほど、社会は合理的でもなければ、国民は怜悧でもないのだ。
その危険を踏まえたうえで統御するのがノブレスオブリージュであり、岡田外相はもっと「傲慢さ」を持たなければならない。
指導者は国民と痛みを分かち合うべきだが、国民と同じ地平に立ってはならない。
今回の件は、岡田外相が民主主義者であるために生じた蹉跌であろう。


この件について、2ちゃんねるで岡田外相発言の捏造があり(魚拓)、捏造内容自体は取るに足らない、すぐさま捏造とわかるようなものだ。
岡田氏の口調では明らかにないし、岡田氏の人となりから生じる発想からはかけ離れている。
岡田外相が2ちゃんねる管理者に削除を要求したのも当然だろう。
ただ、そこまで、である。
削除要求したことによって(そしてそれに管理者が応えたことによって)、それがデマであることは周知された。
それ以上のことは、現役の閣僚、政治家として、するべきではないと私は思う。
田中角栄は何を言われても書かれても、法的措置を含めて報復することは一切しなかった。毀誉褒貶ある人物ではあるが、政治家の責任感という点で、やはり凡百を越えている。
先だって言ったとおり、国民の大半は知識人ではなく、その素養もないから、政治を論じると言ってもほとんどは床屋談義を越えることはないし、的外れなことが多いのだ。
それでも国民が政治を論じ、政治家をけなす自由を守るノブレスオブリージュが指導者にはある。
今回のデマはもっと悪質な、意図的なものではあろう。確かに一般国民の罵倒とは線が引かれるべき内容であるが、その線がどこにあるのか、一般国民には分かりにくいのである。
結果、生じるのは言論の萎縮である。
そうした結果まで踏まえて、政治家は行動すべきであり、それが国民と同じ地平に立ってはならないということである。
この、指導者としての責務を省みなかったのが、清和会の政治家たちだった。
岡田外相は彼らの轍を踏むことがないよう、留意して欲しいものだ。