MJの凄さを知らないのはとても恥ずかしいこと

マイケルについてほとんど知らない俺がTHIS IS ITを見てきた
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80年代を知らない人間に世界がいかに甘美であったかが分かるはずがない。
そういう意味では、MJが体現していた時代精神、その衝撃を、若い世代が知らないのは止むを得ないとは言えるかもしれない。
しかしMJの凄さを今になってようやく分かったよ、と言っているような人たちを甘やかす気にはとうていなれない。
つまりそれは、マイケル・ジャクソンほどの不世出のパフォーマー、触れれば確実に体感できる天才がそこにいてさえ、ネタとして彼を消費する文脈が作られれば、それ以外の文脈では物事を見ない、思考における保守性と偏見がそこにあることを意味しているからだ。
MJがただの奇癖がある人であったなら、80年代にあれほど熱狂的に世界を(文字通りあらゆる国のあらゆる人々を)魅了できるだろうかとどうして考えないのか。
僕は彼のパフォーマンスのファンであったけれども、彼に奇癖があったのは否定しない。もちろん彼の文脈に沿って見ればそれら奇癖には相応の合理性があるものだっただろうとは思うが、世間的に見れば奇行の人であったのは疑うべくもない。
であるから、彼とても神ならぬ身であれば、ネタ化される「部分」が同世代の人間からも出てくるのは当然なのだが、その根底には、一方でパフォーマーとしての彼の天才に対するリスペクトがあった。
MJにペドフィリアをめぐるトラブルが多発していたことから、こういうことに非常にセンシティヴなアメリカでの、彼への風当たり、バッシングは日本でのそれよりももっとシリアスなものだった。
それでもMJのパフォーマンスを知っている者の中では、彼の天才を否定する者はほとんどいなかった。
ネタとしてのみ消費していた人たちは、単に「簡単にパフォーマーとしての彼を体験できるにも関わらず」それをしたことがない人たちだった。
それは、
・一般教養の欠如
・無知の自覚の欠如
・無知を自覚できない前提となる盲目的な自己肯定(オルテガ的大衆性)
・それらの結果としての偏見、寛容の欠落
を意味している。
それは、単に世代的な無知に由来していると考えるには、もっと深刻な問題だ。
第二次ベビーブーマー世代の僕は、下の世代としても上の世代に対して同様の経験も持っている。
アニメーションや漫画の作品の中にも、人類共通の遺産となるような優れた作品があるのは別に今となっては自明のことだが、そのコンセンサスは決して自明ではなかった。
主張と実践によって偏見を乗り越えて獲得されてきたものである。
世代的な限界論を持ち出すならば、例えば漫画であれば、戦中世代が子供の時には漫画文法が確立していなかったので、言い表せる内容にも限界があった。その時代から認識が止まっている人たちからすれば、漫画が「子供のためのもの」となるのは止むを得ないかも知れないが、僕はそれを「止むを得ない」とは見ない。
単に自分の狭い体験からしか敷衍してみることが出来ない、思考と感受性の欠落を意味しているからであり、そして思考と感受性の欠落こそが偏見の母体である。
それとまったく同じことを、MJに対して若い世代が「ネタ」として行っている。
だから僕はそれを世代を理由として、許すことはしないのだ。