英国王のスピーチ




一ヶ月かもっと前、とにかく大震災の前にこの映画を見て、感想文を書こうと思っていたのだが、例のごたごたがあって忘れていた。先日、アカデミー作品賞と主演男優賞、監督賞を獲得した作品である。
幾つかの脚色はあるけれども、おおむね史実をカヴァーしている。ジョージ6世が吃音症だったことは秘密でも何でもないが、それでもわざわざ声高に言うようなことでもないので、この作品を通して初めて諸事情を知ったという人も多いのではないか。
ジョージ6世が吃音症だったのは事実であり、彼が幼少期にナニー(乳母)から虐待されていたのも事実、彼の末弟が自閉症のために隔離され、いなかったかのように扱われ、夭折したというのも事実。父、ジョージ5世や兄のエドワード8世が「よかれと思って」彼に恥辱を与えることを通して吃音症を矯正しようとし、結果的に屈辱だけを与えたというのも事実。
こういう事情を踏まえずして、どうしてエリザベス王妃がウィンザー公夫妻にあれほど冷淡であったのか、そういうことも理解できないのだが、彼女は夫の死後も、終生、夫のコンプレックスであった吃音症に焦点があてられるのを拒否し、この種のジョージ6世の伝記作品についても、せめて自分が生きているうちは止めてほしいと断っていたという(結果的に彼女が英王室史でも稀なほどの長命であったため、この作品の制作公開がこの時期まで遅れることになった)。
王族であることは体面として生きることである。伊達や酔狂ではない。ジョージ6世は吃音症の他にO脚であったため、拷問に近い矯正器具をつけられ、そのために足に軽度の障害を負っている。王族としてふさわしくなければ、末弟のジョン王子のように存在そのものが黙殺される。
もちろん、現代は当時よりは緩和されているだろうが、それでもダイアナ・スペンサーが糾弾した英王室の非人道性そのものは、王室が王室である限り、ぬぐいきれるものではない。
ジョージ6世の父のジョージ5世についても、最期は見苦しく死ぬことを避けるために遺族の同意の下で安楽死させられている。体面のために命をかけている人たちなのだ。
ジョージ5世と言えば、昭和天皇の青年期には同時代の君主であり、その伝記は「理想の立憲君主のありかた」として、帝王教育に用いられたことで知られている。徹底的に機関として生きた人で、ハノーヴァー朝ウィンザー朝)では、ジョージ4世と並ぶ名君とされている。ジョージ6世の評価もほぼ同程度であろう。
その機関としての生き方の中に、特に家族に対する圧迫があった。王として生きることは父としてあることを難しくした。ジョージ5世は名君であるが、根本的に父親としての情愛が欠落している。
成功例ばかりが語られやすい、英国式のエリート教育とはそういうものなのである。ジョージ6世は苦難に満ちた彼の前半生を乗り越えたすえに名君となったのではない。その苦難は乗り越えるものではなく、常に寄り添うものであった。乗り越えた結果、名君となったのではなく、名君性の中にぬぐいきれずに苦難があったのだ。
ジョージ6世は、作品のクライマックスとなる開戦スピーチを見事やりとげ、第2次大戦の苦難の時期を常に国民とともにあり、歴代の中でも一二を争う敬意を寄せられる君主となった。その名君性はつまり、彼が機関として成功したということであって、その原因は彼に苦痛と苦難を強いたものと同じものだった。
私たちはこの映画を、ジョージ6世個人の克服の物語として観ることはもちろんできる。しかし、なぜ彼がそもそも克服をしなければならないような苦難を味わったのかまでを考えれば、これは立憲君主制というシステムが内部の人間にもたらす非人道性の物語として観るべきなのだ。
ジョージ6世は父親としては、自分がかつて苦労をした経験があり、なおかつ生来の優しさがあり、妻女を心から愛していたこともあって、暴君にはならなかった。しかしそれは彼が国王としての矩を軽視したことを意味しない。政府や議会が、事実上の王位継承者であったエリザベス王女の地位の向上を打診した時に、将来生じ得る事態をも見据えたうえで、それをおしとどめたのはジョージ6世なのであった。個人の情を国王としてある時には、ことさら理性的に扱う注意深さをやはりこの王もまた持っていた。
それはジョージ5世の宮廷ほどは苛烈ではないにしても、王室がただの家族としてあることを難しくするものだった。
エリザベス2世女王の夫エディンバラ公は性格的な苛烈さは舅のジョージ6世にではなく、更にその一世代前のジョージ5世に似ている。彼の下でチャールズ皇太子ジョージ6世のような苦痛に満ちた少年時代を送るが、ジョージ6世が長生きしていれば、その風の強さを緩和したり、話し相手になっていたかも知れない。実際にはジョージ6世の短命のために、そうした機会はなかったのだが。
今月、英国のウィリアム王子が結婚する。ジョージ6世の直系の曾孫にあたる。
チャールズ皇太子は、夫として、時に機関である王族として、批判に値する言動を示してきたが、父親としては細やかな配慮ができる人であったようで、ウィリアム王子は柔和な顔をしている。
彼のためにはそれが何よりだと思うが、今後、彼もまた人間と機関の間で難しいバランスをとることを強いられることになるだろう。


さて、この映画にはひとつだけ見過ごせない史実と相反する部分がある。それはチャーチルの扱いである。忘れてはならないのは、チャーチルは本来、自由主義的な性格を強く持った政治家であるということであり、「王冠を賭けた恋」の時には強く国王エドワード8世を支持する有力政治家だった。
ジョージ6世即位後は、ジョージ6世との間に親密な関係を築いたが、エドワード8世とジョージ6世のふたりの国王をそれぞれ党派として見た時に、最初からジョージ6世の与力であったかのように描いているこの映画はその点で嘘をついている。それだけは注意しておいた方がいいと思う。