在特会の朝鮮学校攻撃について思うこと

朝鮮学校擁護側の論理にもいささか詭弁めいたものを感じる。そういう面を在特会のような人たちに「あげあしをとられる」のだろう。
批判は正面から受け止めた上で更に批判した方が良いように思う。
公園を恒常的に運動場として学校が使用することは、公園の自由使用の一般概念からはかなり外れている。物理的にその間、他者の使用が困難になるのだし、それが一時的ならばまだしも、恒常的にそのような状態にあるとすれば、不法性はあるし、行政指導がなされるべき事案でもある。
京都市がそれを黙認していたということは、そこに不法性がないということを必ずしも意味しない。その判断に相応の合理性がなければ、単に京都市の行政上の怠慢であるというに過ぎない。
しかし、私は京都市のその黙認は合理であったと思う(従って、この点の朝鮮学校の行為の不法性は棄却されるべきだと思う)。


教育の義務は優先順位が高い国民の義務であり、体育教育ももちろんその中に含まれている。
子供には教育が与えられなければならないという絶対命題を在特会は忘れているのではないかと思う。
日本国に居住する子供にはすべてひとりの遺漏もなく、教育が与えられなければならない。朝鮮学校に、運動施設がないのであれば、運動施設を用意するのは行政の責任である。
朝鮮学校一条校でないことから、この「行政の責任」の実現が難しいのだが、それに換えて、京都市は公園使用を黙認していたと見るべきだろう。
こういうことを言うと、一条校としての基準を満たせない朝鮮学校、及びそこで義務教育期間の教育を行うことの違法性を言う人もいるだろうが、それを言うならば、子弟の進学先としてそういう場所を選ぶ親権者の親権の問題であり、親権を停止する損失と比較するほどの、遺漏が朝鮮学校での教育にあるとは思えない。
この場合は単に運動場がない、というだけのことだからである。
これもまた、「恨むなら親を恨め」の論理に似ていて、朝鮮学校の問題のみを浮かび上がらせようとしている人たちは、そこに通う子供たちに対する市民的な義務はまったく考慮していないのである。
親のせいや朝鮮学校のせいにして済む義務ではない。そういう「障害」があったとしても、追いすがってでもこの義務を果たさなければならないという認識がまったく欠落している。
京都市の黙認は温情ではなく、この義務と、朝鮮学校が直面する行政的な現実の前で、苦肉の折衷をなした結果であって、朝鮮学校の生徒たちが本来持っている教育の権利に対して、エクスキュースとして公園使用を容認しているものである。
つまり、京都市朝鮮学校の生徒に対して温情を示したり、「特権」を与えているのではなく、譲歩を示しているのは朝鮮学校の生徒側なのだ。在特会の認識は主客が逆である。
通常の学校であればそこに通う生徒たちは「自分たちの校庭、自分たちの運動場」があって当たり前なので、朝鮮学校の生徒たちも、それを持っていて当たり前である。
その当たり前を実現できないのは、行政上の不備の問題なので、それは朝鮮学校の生徒の責任ではなく、行政の責任である。それを公園使用によって朝鮮学校の生徒たちに「堪忍していただいている」のが現状であって、朝鮮学校の公園使用に対して行政や、教育の義務を負っている国民が非難できる筋合いではない。
一条校の問題から行政が他校と同様の助成や、校庭の整備に関与するのが難しいのであれば、利用に事前に許可が必要な特殊公園という名目で、運動公園を整備して、その利用を朝鮮学校のみに限るのもひとつの手である。
現状は、「朝鮮学校外の人の利用が妨げられている」のではなく、「他の人たちの利用によって朝鮮学校の生徒の専用が妨げられている」と見るべきである。何故ならば、教育の義務はなにものにも優先するからである。
京都市の現状の折衷案は、京都市の過剰な温情ではなく、最低限の義務の履行と見るべきであり、「朝鮮学校生徒の専用運動場の必要」にまで踏み込んでいないことが、差別的な運用である。