英語教師

英語教育についていろいろと考えてみても、結論は結局、以前のものと変わらない。英語教育はもっと重視されるべきであるし、もっと時間が割かれるべきである。
世界はますますひとつになってゆくし、言語的なコミュニケーション・スキルは生死をわかつ問題になる。
私個人としてはこれは既に結論が出ている問題なのであって、いまさら国語の思考能力がどうだという話をするつもりはない。
今後の国際環境は日本人の子供にとって決してベストなものではなく、以前と比較してもベターなものにさえならないだろうが、私たちが生きていかなければならないのは現実の国際社会だからである。
実現も出来ないような理想から敷衍して、あれはダメ、これもダメと言っていても仕様がない。


その前提のうえで望まれる英語教師とはどのようなものかを考えると、おそらく一番良いのは「英語についての理論的な知識があり、日本語でそれを生徒に説明できるネイティヴスピーカー」だろう。小学校一年生からシャワーのように英語教育をやるのでないならば、理論は踏まえざるを得ない。
先の条件のネイティヴスピーカーのところを日本人に置き換えても良い。要は、
1.ネイティヴレベルでの英会話能力を持ち、
2.英語について理論的な知識を持ち、
3.それを日本語で生徒に説明できる
この3点が必要だろうと思う。
JETプログラムで来日している教師の中には、条件2と条件3の能力に疑問がある人が少なからずいる。まして町中の英会話学校で教えているバッグパッカーに教師としての能力と資質を期待するだけ無駄である。
とは言え、JETプログラムはある程度の知識水準を持つ英語圏の若者を日本語環境に置くものとしてはもっとも大規模な事業であり、JETプログラムから更に選抜するのが最も現実的な人材確保方法だろう。
日本の公立学校の教師は世界的な水準から見ても給与的には優遇されているので、JETプログラムの給与自体はそう高くはないが、他の教師のレベルに引き上げた地位を保証するのであれば、中には一生の仕事にしたいと思う人材もいるはずだ。
彼らが地域コミュニティに深く根を張れば、いずれは根底から改めてゆかなければならない諸々の日本文化の閉鎖性を変える契機にもなるだろう。
教職そのものはなおも比較的社会的地位が高い職業なので、国際化はそうした「上からの浸透」を経てなされた方が社会的にもよりストレスが少ない。そうした役割まで期待されては教師にとっては負担であろうが、どのみちそこまでの覚悟を持った人しか残らないはずだ。
今のような人寄せパンダめいた扱いではなく、もっと日常のシステムの中にJETプログラムの人材を食い込ませるようにしなければ死に金である。