寛容の正体

イスラムの怒り (集英社新書)

イスラムの怒り (集英社新書)

集英社新書の「イスラムの怒り」が面白かったと言うか、いろいろと蒙を啓かせていただいたと言うか、なるほどそうなのかと腑に落ちることが多々あった。
自分の中にあるイスラム観が西欧を通して形成されていたことを改めて自覚させられた。
先日、ベルギーで左派が主導して公共の場面でのブルカ着用を禁止する法律がひとりの反対も無く可決されたということがあり、同様の法律はフランスでも予定されている。
これについて何人かのヨーロッパ人と話したが、面白いことに保守的な人ほど、「彼らの好きなようにやらせてやれ」という感覚であり、リベラルな人ほどイスラム的慣習をリベラリズムへの挑戦と捉えている傾向にある。
保守にありがちな冷酷な儀礼的無関心がこの場合は結果的に「寛容」として生じている。
ヨーロッパのリベラルな白人と話していてしばしば感じる徒労感と言うか、「まったく話が通じない」盲目的な独善性への過信がやはりここにもあったように思う。
ブルカを禁止する上で、デモ等で身元確認が出来ないからというエクスキュースもあるのだが、それが文字通り「言い訳」に過ぎないのは、身元確認をして何か意味があるのか、ヘルメットはどうなんだ、各種制服はどうなんだと突き詰めて考えていないことからも明らかだ。
ただしそう主張する人たちは、本気でそう思い込んでいる。その、自己の欺瞞性に無自覚なリベラリズムが徒労感をもたらすものの正体であろうと思うし、イスラムの文化と共存できない、西欧社会の真の寛容の欠落の原因となっているものだろうと思う。
西欧におけるブルカは、女性が自ら選択して着用している場合がほとんどであろうし、それを女性差別の象徴とすること自体にイスラムへの偏見があるのだろうと思う。重層的に塗り固められたエクスキュースをひとつひとつ剥がしていけば、そこにあるのは昔ながらのエトランゼへの排斥感情だ。
西欧でも、場面ごとでは、下着姿やヌードで歩いてはいけないわけであって、髪を覆うのと陰毛を隠すのとでは(西欧人は一般に陰毛を処理していることが多いが)、単に何をして性的なサインとみなすかの文化的要因によって決定されている。
すべての社会がそうであるように、イスラムの中にも抑圧の風習や構造があるのは確かだが、何が西欧社会において許容不能な「寛容への攻撃」であるのかを徹底して腑分けして、自己批判することが出来ていないからリベラリズムの名において差別を許認してしまうような状況が生じているのであって、マジョリティの側のその盲目的な鈍感さこそが、ヨーロッパのアラブ人やトルコ人アルジェリア人の若者たちを絶望させ、イスラムに回帰させ、なおかつその「純化」を促してしまっているのだと思う。