はてなサヨクに自民党を批判する資格があるか

自民党が現憲法を改変し、特に現在の12条、13条の基本的人権を公共の福祉に従属させるという規定を極度に強調している件について、左派が強いはてなでは批判が強まっているが、はてなサヨク界隈にそれを批判する資格があるのかどうか非常に疑問に思う。
自民党の立場は法学的に言うならば、一元的外在制約説を強調しているに過ぎないのであって、それを批判するならば、一元的外在制約説自体を批判しなければならない。
私は明確に、一元的外在制約説に批判的立場に立っていて、一元的内在制約説(通説)に立つか、更に突き進めて、実際には経済的自由権社会権のみに公共の福祉の制約は限られるという二元的内在外在制約説に立っている。
このことがかつて争点になったのは、
http://d.hatena.ne.jp/iteau/20091205/p1
http://d.hatena.ne.jp/iteau/20091205/p2
http://d.hatena.ne.jp/iteau/20091209/p1
このあたりの記事であるが、はてなブックマークのコメントを含めて、各自がこの問題に対してどのような立場を見せたのか、改めて検証されるべきであろう。
上記の記事で批判的に示された、「女性が男性の性的興奮を刺激する服装を身に着けていればすべての男性が理性の統御力を失い女性をレイプする」という仮定下において、そういう条件があれば、「(女性の安全という公共の福祉上の要請があれば)男性を去勢する(身体的な予防的拘禁・刑罰が合理化できる」という考えが、身体的な自由と言うごく基礎的な人権についても公共の福祉に従属させている点において、そもそも法学的な通説からも違反しているし、基本的人権を重視していない発想であると私は批判した。
それに対する反応が引用記事の反応の通りであった。
彼らが言っているのは、畢竟、女性の安全という公共の福祉上の要請があれば、身体そのものに公共が介入することが出来るということであって、これはあらゆる人権を公共の福祉において従属的に扱おうという自民党の発想とまったく同じである。
彼ら自身は、そもそもの動機が女性の安全という女性の福祉向上という「いいこと」であるので、おそらく動機が悪いものであるであろう自民党とは異なると主張するであろうが、そういう考えは、彼らがいかに、政治的な目的を見て、実際に制約を余儀なくされる個人を見ていないかの表れであろう。
彼らの個人軽視の思想こそが私が彼らと決定的に相いれない根本的な理由である。
譲歩的に言うならば、私も彼らが自民党がおそらく目的としているような、人権そのものを統治機構に従属させるような発想を持っているとは考えていない。しかし自民党によってであろうがフェミニストによってであろうが、制約を余儀なくされる個々人にとっては、制約を余儀なくされていることは同じなのであり、動機が「良いもの」であればその制約に抗議することがなおのこと困難になるという点において、更にたちが悪いのである。
私自身はどれほどラディカルな立場に立ったとしても、二元的内在外在制約説に立っているから、少なくとも社会権と財産権においては公共の福祉による制約があり得ると考えているのだが、身体的な改変にいたるまでは絶対に容認できない。
同様の理由から、私は性犯罪者に対する強制的な投薬や、物理的な去勢、死刑制度には反対である。
であるから、私が自民党改憲案に反対するのはごく当然であるし、筋が通っているが、引用記事において、公共の福祉において身体的改変を合理化できるとの考えを提示した人たちにはその資格はないと考える。
彼らはベクトルが違うだけで、発想は自民党と同じだからである。


[追記]
理解できなかったり、捻じ曲げるおバカさんが多いので、条件を改めて説明しておくと以下の通りであった。ここで使用されていた「ケモノ」という比喩が、非常に誤解を生じさせやすいものであったのも確かである(私が選んだ語ではないが)。そのため、「ケモノ」を「強姦者」に置き換えて説明してみよう。<曽野綾子が提出した仮定条件>
・女性が薄着をすれば男性は性的興奮を覚え(例外なく)強姦者になる。<曽野綾子が提出した結論>
・従って薄着をしていて強姦される女性は当人の落ち度である。

・男性が女性の薄着を見れば強姦者になるとすれば、それは男性の側の責任なので、去勢を含む予防的措置を男性はなされなければならない。強姦者に人権はない。

曽野綾子の提出した仮定にのっかるならば、女性の薄着という現象によって漏れなく男性が強姦者となるスイッチを押されるのであれば、それは生物的な反応であって、女性には責任はないが男性にも責任はない。ある種の病、社会的に不適合な生理などの生物学的性差と同じものである。人が人である限り、強姦者であっても人権はないということはない。そういう前提において、公共の福祉は、「どちらが性質上の主因か」ではなく、「どちらの損失の方がより調整可能であるか」の観点から調整を行う。この場合、現象的な因果関係は、女性の薄着が男性の強姦者化を招くという条件なので、対処する方法は、女性が薄着をやめるか、男性を去勢するかのいずれかに絞られる。第一に、公共の福祉は身体それ自身の自己保全性にまで干渉することは出来ないという点において、第二に、ファッションと去勢という損失の程度の比較において、その条件であれば、女性が薄着をやめるという方向にならざるを得ない。hokusyu氏は法理的な人権がいかなるものなのか理解していないだけである。
現実に生物的な性差に伴う調整としては、生理休暇の制度がある。生理は女性の生物的な条件に基づく特徴であるが、雇用関係においては当人にとっても雇用者にとっても不利益をもたらす特質である。これは女性が悪いのではなく、雇用者が悪いわけでもない。「どちらが性質上の主因か」で調整するならば、雇用者の側にいかなる意味でも原因があるわけではないので、もし、その観点から調整が行われるならば、「働きたい女性は子宮を摘出するなどして生理を抑制する義務がある」ということになるが、現実にそうなっていないのは、生物的な条件による身体改変が人権擁護の観点から公共の福祉の調整になじまないからである。