両親のこと

母と父のことを思えば、夫婦のありようとして、傍から見ていて面白い関係だったと今は思う。
母は支配的な人物だった。10人いればその中で、100人いればその中で、必ずリーダーシップをとるような女で、社交的でもあるしお節介でもあるし、同情心もある人だった。母の息子である僕は、性格で言えば何一つ似たところがない。似たところがないからまあまあそれなりに折り合ってこられたのだと思う。姉は母と同じような性格だったから、母とはぶつかることも多かった。
六人姉弟の長女に生まれ、早くに母親、つまり僕から見れば祖母を亡くしたことから、母は家政において全権を振るってきた。そのために犠牲にしたこともあるのかも知れないが、そうした指導的な立場が心底性に合っていたのも確かだろうと思う。僕の一族にはわりあい受け身な性格の人が多いのだが、母と母の父(つまり僕の祖父)だけは例外で、彼らは生まれながらの指導者であった。
祖父も相当に頑固な人ではあったのだが、長女を制御しきれず、家政においては長女に全権を委ねていた。母は頑固な父親と対決しても、結局は自分の思い通りにする、それくらい我が強い人であったし、そういう意味では祖父から見れば自分の性格を更に肥大化させたような娘であった。
思い切りが良い面もあった。母の弟が長患いをした時、毎週新幹線に乗って看病に出かけるのを苦ともしなかったのも母であるし、まだ手がかかる弟の末の娘を、弟の妻の負担を減らすために結果的に2年間うちでひきとることを即決したのも母であった。そういうことを決める時に、母は誰にも相談しなかった。母にとってはあまりにも当たり前の行動であったからであり、父は母のそういうところは評価していたので、母が「当たり前の行動」をとった時に文句を言うことは一切しなかった。
僕もそんなことは家族なら身内なら人間ならば当たり前だと思っていたので、世の中にはそういうことで迷ったり、「よくそんなことが出来るよね」と感心する人がいると知った時に、非常に驚いたものだ。
思い切りがいいと言えば思わぬところで散財する癖もあり、普段は非常に倹約家なのだが、高価な陶磁器をたまに購入したりして、あとで値段を聞くのが怖いというようなことがしばしばあった。全体として家計の管理は破綻なくやっていたが、余剰金があるからと言ってブルジョアでもないのに、皿や何やらに何百万円も注ぎ込むのは、僕から見れば常軌を逸していると思うことがあったが、父は管理さえできているならとそういうことについても何も言わなかった。
父は支配的な人ではなかったが受け身な人でもなかった。独立して人生を築いてきた人であり、そういう人にありがちなことであるが、人当たりはよかったが眼差しは非常に厳しいものがあった。僕が足りない頭で考えて何か適当な嘘を言っても、必ず父はそれが嘘だと見抜いた。
父は家族のだれに対しても幻想を抱くことはなかった。僕の性格や能力を正確に値踏み、出来もしないことは期待しなかった。父を愛していなかったことはないと思う。尊敬はしていた。父のようになりたいと思ったことさえあった。しかし僕は父の前に出るといつも緊張した。父は暴力を振るうことは決してしなかったし、誰に対しても暴言を吐かなかった。それどころか非常に親切な人であり、父を慕う人も多かった。
たとえば僕の友達なんかで、僕の父を慕っている人が何人もいた。ユーモアのセンスもあったし、一見、話して楽しい人であった。僕の友達は僕の父に馴れ親しんでいたのに、僕だけは馴れることがなかった。父がどこに出しても恥ずかしくないような人であったから、その原因は僕にあるのだとむかしの僕はそう思うしかなかった。そのことが僕をさいなんでいたが、今は父のあの厳しさを理解していたのは僕が息子だったからだと思う。父には友人知己も多かったが本質的には孤独な人だった。孤独であることが苦にならない、そういう人だった。
姉はおそらく、父のそう言う面には気づいていなかったと思う。だから彼女は父の娘でありえた。母はさすがに妻であるから夫がどういう人なのかを知っていた。母は支配的な人であるが父を決して支配することは出来ないとは分かっていた。そういう緊張があったから、母は父を尊敬できたのだと思う。母は尊敬できない男は愛せない女であった。しかし彼女が愛する男は妻には愛情を捧げない男であった。家族としては文句なく父は妻子を守った。しかし、審判者のような眼差しを捨てて、盲目になることは一瞬でも出来なかった。
父に馴れることが出来たのは父の眼差しに気づかない人たちだけだった。母と僕はそうではなかった。
だから性格が異なりながらも同じ「気づき」を共有している僕を、母は自分の息子として扱った。もちろん僕はどういう意味においても母からすれば息子ではあったのだが、姉が父の娘ならば僕は母の息子であった。根本の性格が母に似た姉とは、ぶつかることがあっても、僕とはそうはならなかった。僕の根本の性格は、父に似ていた。僕は早くから自分が大した人間ではないことを事実として知っていたけれども、それを直視せずに済んだのは母の盲目が与えられていたからだ。ただ、僕が真実から逃げようとしても、傍らには父の眼差しがあった。そしてその眼差しは僕自身の中にもあった。
父が死んだのはわりあい早く、僕が大人になってから何年も経っていない頃だったから、もちろん僕は泣いた。泣いたけれども、涙を拭いた後にほっとした。僕は父が死ねばほっとするだろうとずっと以前から分かっていた。そして父もまたそのことを知っていたはずだ。僕の父はそういう人だった。
父を失って思いのほか、母は沈んだ。支配的な人であったから気丈に生きていけるのかと思っていたがそうではなかった。夫婦の間でどういう会話があったのか、それは夫婦の間のことなので僕には分からない。分からないけれど、そこには盲目的な共感はなかったはずだと思う。だからこそ母は母なりに緊張していたし、彼女なりに父の妻として相応しくあろうとしてきたのだ。
だからそれは共感的な支えを失ったことによる喪失感ではなかっただろうと思う。あの眼差しがそれほど厳しいものであったとしても、それは母にとっては指針であったのだと思う。
母が父のことを話すたびに、どんどんその姿は神格化されていった。もちろん父は社会人として、一個の人間の生き方として、それこそ厳しい眼差しで見ても一見、非の打ちどころがない生き方をした人であったけれども、そうであること自体がすでに人間としては不自然で歪みがあるように、母の中の父はもはや父そのものではなかった。父が持っていた偏りのようなものさえ、妻に受け入れられないのならば、それはとても悲しいと思った。
どちらにせよ、彼女の思いは彼女自身でそうにかするしかなかった。そうして何年かが過ぎた後に、実は最近、交際している男性がいると母から言われて、ならばまあ会ってみましょうということになった。
生きている人には生きている人間が必要だ。死者に操をたてるのは無益なことだ。そういうリアリズムを僕は持っていて、そうした性格は間違いなく父から引き継いだものだから、母が父以外の男とどうなろうともそれで僕がどうこう感じることはなかったし、父もまた、好きにすればいい、と言うのは確実だった。
会ってみれば人がいい男であったが、気の弱い、受け身の男であった。彼が僕に対して非常に緊張していて、恐怖のようなものを感じているのは分かったから、優しく振る舞ったが、根本の性格が父に似ていて、なおかつ父ほどはそれを上手に隠せていない僕の前では、気の弱い男が緊張するのはごく当然のことであった。
そういう男が相手ならば母は母本来の支配的な性格を存分に発揮できるのだろう。
尊敬が出来ない男は愛せない女ではあるが、そういう愛はもともと母には必要ではなかったのだ。母に必要なのは簡単に言うならば被保護者であって、自分のままでいることが母にとっては幸福であったのだろう。