醜悪なものを見た

パリで30万人規模の「同性愛者の結婚に反対するデモ」が開かれたようだ。
報道の写真を見る限り、多数の女性が参加していたようで、そういう女たちこそが醜悪な存在に他ならない。マリー・オランプ・ド・グージュはフェミニズムの草分けで、その活動ゆえに結果としてフランス革命の際に(左翼によって)処刑されたが、彼女が主張した原則は明快であった。
「女が処刑される義務を持つなら、当然、政治的権利を持つ」
と言うもので、この「代表なきところに課税なし」的なシンプルな原則が、その後のフェミニズム運動の最大の理論的根拠となったのである。これは同時に、男のみに課せられた兵役を根拠として、女権拡大を阻害しようとするカウンターも生み出し、それがために、フェミニズムの前線においては女性の「従軍する権利、戦う権利」が焦点となったのであった。
ともあれそういう形で、女性の社会権参政権は拡大し、当然のことながらデモに参加する権利も持つのだが、その彼女らが、同じく義務は課せられているのに権利を阻害されているLGBTの人々に対しては、他人の権利を尊重できないのは醜悪というしかない。
もっともおそらくフェミニズムの多くはLGBTの権利擁護に積極的であろうし、そうしたデモに参加する女性は保守的なのであろうが、保守と言うならば、「女如きが社会のことに口出しをしてはいけない」”古き良き”、人類史の長くを占めた家族や性役割のありようを保守すればいいものを自分が口を開く権利は主張すると来ている。
そのような女がたまたま女であると言うことによって、都合のいいフェミニズムの主張を唱える時、フェミニズムはまさしく他者の権利を尊重できないという一点においてナチズム化するだろう。
フェミニズムはそのような女たちに対して「たまたまそういう女もいる」的な、機会主義的な黙殺をするべきではない。そういう女性たちは、フェミニズムが拠って立つべき、原理原則からの逸脱であり、その原則への致命的な挑戦者であるからである。