女性は政治に向いていないのかどうか
舛添要一が、女性には生理があり気分が不安定なので決断時に安定していなければならない女性は政治家には向かない、というようなことを言ったとか。私はその見方には同意しないけれども、生理の時の不安定さは男には分からない、男は黙って女にあたられろ、みたいなことを言っていたフェミニストクラスタの人たちはどこへ行ってしまったのか。
舛添とそれらフェミニストクラスタの人たちは、同じ事象を、排除と肯定、別の見方から見ているに過ぎない。これを男も同様みたいに言っている人は本当に認知が歪んでいるというしかない。単純に、男には生理は無いからだ。この場合、女性の生理が、女性の気分の不安定さをもたらしているという主張なので、同一の条件において男を論じること自体、ナンセンスである。いや、男には性欲が云々と言いたがる人は本当にあたまが悪いと言うか、女の側に原因があるような不利なことがあれば、無理にでもいや男も云々、と言いたがるその無理で道理を捻じ曲げるマインド、この場合には女にも性欲はあるのだから、女にだけある生理と、男女双方にある性欲を同一条件では扱えないという小学生程度でさえ弁えておくべき理屈を、目的のために捻じ曲げようとするそのマインドをこそ非難するべきだし、そういう論を用いて悦に耽っている人たちは恥じ入るべきであろう。
この設問自体で言えば、舛添要一の言っていることは可能性として、それ自体としては存在する。これへの反証として、いや、サッチャーはどうなんだよという人もいるが日頃、フェミニズムなことを言い、サヨクなことを言っているどの口がサッチャーを都合よく政治家の実例として用いさせるのか、恥入ることを求めるのは過剰要求なのだろうか。実例として、サッチャーやヒラリーを持ち出されても、あれらこそ「女性が政治家に向かない」実例なのではないかと思われたりして苦笑せざるを得ない。
ただし繰り返すならば、私自身は女が特に政治家に向いていない、とは思わない。向いているとも思わない。敢えてそこで男女の別をつけるまでの理由は見いだせないだけである。それは逆に言えば、「生理の時の不安定さで周囲に当たり散らす」ことをやむを得ない生物的な条件として許容はしないということでもあり、そんなのは個人の性格の問題だと見なしているということである。
そこに「男女」が関わるとすれば、それはバイオロジカルな理由からと言うよりは、「生理を持ち出せば無理で道理を捻じ曲げがちな女の言い分が通ってしまいがちな社会的な、業病としてのフェミニズムの問題」としての側面の、ジェンダーイデオロギーによって生じているものだろう。
そこまでの前提と意見を整理したうえで、女性が政治に向いていないのかどうか、実例に即して考えてみようとすれば日本の例で言えば「まだよく分からない」と言うのが本当のところだろう。なにしろ政権党であった自由民主党にようやく女性衆議院議員が登場したのが1993年、野田聖子からなのだ(同期当選の高市早苗、田中真紀子は無所属)。絶対数それ自体が少ない。
90年代以前にも女性国会議員はいたが、ほとんどは社会党などの左翼政党の所属であって、保守の人は当然ながら、男女以前に社会党の議員を評価しないから、政治的なイデオロギーで判断すれば、保守系の女性衆議院議員がいなかった90年代半ば以前では、判断の前提それ自体が無かった。
ここまで考えれば、そもそも「いい政治家悪い政治家」とは何だという話になってくる。今の左翼は当然ながら安倍晋三を評価しないだろうが、保守からすれば彼ほど評価できる人もいないだろう。そうした評価する側の政治的スタンスの問題もあるし、政治家の地位の問題もある。
例えば土井たか子の例で言えば、彼女は自社さ連立政権のわずかな時期を除けば、ずっと野党の政治家であったわけで、自社さ連立政権の時も衆議院議長を務めはしたけれども、行政府の経験はないわけである。政治家の「実績」というのはおおむね行政府で何をしたのかということが多いことを踏まえれば、土井たか子のようにキャリアが長く、ある意味、位人臣を極めたと言ってもいい立場の人であっても、結局、行政府の経験がなければ評価の対象にはならないとも言える。
日本についていえば、だから今現在まだある性全体が政治に向いているとか向いていないとか論評できる状況ですらない、というのが私の認識である。
諸外国についていえばどうだろう。メルケルは評価に値しないがシュレーダーがあれより優れていたとも思えない。コラソン・アキノは結局ほとんどを成し得なかったが、エストラーダよりはどう考えてもマシだろう。
傾向で言えば、「過激な、ウルトラな政治家」が左右を問わず多い感じはする。調整型の穏健な女性政治家は少なく、主義主張で党派や大衆をリードする、悪く言えば扇動する、そういう政治家が多い感じがする。従って女性政治家が首脳である場合、得てして、彼女が問題を解決するのではなく彼女自体が問題になることが多い。
その導いていく方向が、評価者が気に入れば「偉大な政治家」と言われるのであろうし、気に入らなければ「ヒステリー気味な破壊者」と言われるのだろう。